【読む】『太宰・安吾に檀・三島  シドクⅡ』(鼎書房)の書評  原卓史

 予告した原卓史さんの書評を送っていただきました。とても丁寧に読んでくれているので、『シドクⅡ』を読んでない人でも読んだ気になれるから、この書評だけでも読んでおくと恥をかかずに済むことだろうヨ。

 末尾にボクの勘違いを2ケ所、訂正してくれているので手許の『シドクⅡ』の該当箇所を訂正して下さい。

 

〔書評〕関谷一郎著『太宰・安吾に檀・三島 シドクⅡ』
(鼎書房、二〇一九年一一月一〇日、本体価格二二〇〇円+税)  原卓史


 本書は、『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』(洋々社 一九九四年一〇月)、『シドク 漱石から太宰まで』(洋々社 一九九六年一二月)に続く、関谷一郎氏の三冊目の単著となる。氏の単著には、研究書ではあまり見かけることのない、読者を楽しませたり驚かせたりするような興味深い仕掛けが施されている。それはときと場合によっては、〈お叱り〉を受けることもあるらしい。しかし、そのことを密かに期待している読者としては、次の単著ではどのような仕掛けをしてくるのか、期待せずにはいられないのである。今回は、「私にとって三冊目の、生涯最後の論文集である。」という驚くべき冒頭から始まっている。では、その内容とはいかなるものなのだろうか。
 まず、「シドク」の基本的な考え方から押えておこう。教育学部に所属していた氏は、「作家研究」も「カルチュラル・スタディーズ」も役に立たないものであったとし、「テクストを読むこと自体の楽しさを本書で改めて伝えたい」という。この姿勢は、前著『シドク 漱石から太宰まで』の中で、より具体的に説明されている。「頭の中のポシビリティ(可能性)だけを無責任に言いつのるのではなく、作品の言葉から読みとれるプロバビリティ(蓋然性)に基づいた論を展開」させていくことが、研究の基本的な態度となっているのである。そして、「テクストの《細部を読む》楽しさ」を味わってもらいたいと繰り返し述べている。ただし、ここで注意しなければならないのは、テクストの《細部を読む》こととは、テクストの部分の読解に留まることを意味しない、ということである。細部に注目することが、作品の核心となるものを言い当てていることに注意を要しよう。その手際の鮮やかさが本書全体を貫いているといっていいだろう。
 そして、もう一つの特徴は、二項対立への注目である。弁証法的な止揚が目指されることもあれば、二項の一方の極への注目がなされることもあれば、二項の〈間〉の領域に対する注目もある。具体的には、太宰治志賀直哉檀一雄三島由紀夫といった作家同士の比較や、生/死、自/他、一元的/多元的といった言葉の対比などである様々な二項対立への注目を通して、作品の特徴を析出していくこと。こうした姿勢が本書の
主軸となっているのである。ただし、これは図式化することが目的なのではなく、読む楽しさを味わうための方法である。
 さて、まずは「太宰治」の章から見ていこう。「太宰文学の特質」では、まず、夏目漱石志賀直哉太宰治の違いが明らかにされる。漱石文学が、「吾輩は猫である」から「明暗」にかけて、「〈他者〉の不在から〈他者〉による相対化への変化」だと捉えたのに対して、「主人公・他の人物・語り手・作者・作家という〈同一化〉の連鎖こそが、志賀文学と太宰文学との共通点だ」とする。ただし、志賀と太宰には相違点もあるという。強者の〈自己完結〉/弱者の〈自己完結〉、男との〈同一化〉/女との〈同一化〉、〈自己の輪郭線〉が強い/〈自己の輪郭線〉が弱い、などである。そして、「時おり〈同一化〉の世界を破ろうと試みた」のが太宰であったという。「太宰治」の
章には、その他、「春の枯葉」、「如是我聞」についての論考が並ぶ。太宰文学の小説、戯曲、エッセイが取り上げられていることになる。ジャンルに関わりなく太宰文学を貫いているのは〈自己完結〉であり、そのからの脱出の試みとして「如是我
聞」があるという見取り図が示されている。
 まず、端的に作家の特徴を捉えていて、それが首肯させられるところに凄みがある。また、一作家のみならず、複数の作家の特徴が比較されるところもまた、《細部を読む》どころではない特筆すべき点である。一方で、太宰治の〈同一化〉から
の脱出の試みとして、「如是我聞」以前にはどのような作品があったのか。また、「如是我聞」と同時期に書かれた他の太宰作品は、〈同一化〉からの脱出が果たされているのか。論の展開が必ずしも作品の執筆時期を意識したものとはなっていない
ため、いつどのような変化が作家の中で起こっているのか。それらが見えにくくなっているようにも感じた。
 「坂口安吾」の章では、安吾のテクストが「整序化しきれぬもの」、「解りにくさ」、「つかまえきれない」ものという認識が示される。まず「真珠」が太宰治の諸作品と比較した分析がなされる。「真珠」では、「太宰のテクストは時局に迎合している
ように見せかけながら」、「抵抗の姿勢が読み取れる」とするのに対して、「安吾のテクスト」は「ノイズの共存は作家の計算から外れた現れ方をしており、それが収束点を持たぬまま投げ出されているものの、テクストそれ自体は巧妙に着地」してい
るという。「白痴」については、「白痴女」に対する伊沢の「一時的な思い込みによる美化」と「覚めた後の否定」との「二極に分裂している」という。「二流の人」については、二流の人と目される如水と、天才と目される秀吉に対しても「ネガティヴな面」が強調されて「両者の境界が曖昧」になると指摘する。「安吾が無意識の中に志賀文学に典型される〈同一化〉の連鎖を断ったのは確か」であるとした上で、「安吾の断ち方はその場限りの中途半端」なものとの仮説が立てられて論が閉じ
られる。
 安吾文学の捉えにくさというのは、確かに研究を続けていて常に感じ続けていることではある。二項対立的な図式を当てはめてみると、そこからスルリと抜けだしてしまう余剰のようなものがあるのだ。二項対立的な図式とそこからこぼれる余剰とを、どのようにして同時に掬い取ることができるか。そのことの方法論を検討しながら作品分析をしているように感じられた。「仮説を証かす」ことは「……また後日」となるそうだ
が、それが一日も早く紹介されることを願わずにはいられない。

 「檀一雄」の章では、檀一雄の「〈あくがれ出づる〉」心をロマン主義と捉え、衝動で断崖から飛ぶことが最初期の詩編から「火宅の人」にまで描かれているという。そして、「〈巨大な衝動〉に翻弄される」檀一雄(的人物)と、「〈衝動の模倣〉に甘
んずる」三島由紀夫(的人物)との対比がなされる。「火宅の人」については、主人公の桂が太宰治の「女性遍歴をスプリングボードにして恵子に向けて「跳躍」し、〈生〉の力のまま恵子と二人で〈泳〉ぎ続けた」が、最後は「ただ〈眺める〉人に
変貌」してしまうことが論じられる。
 当該章は、本書前半の章と、本書後半の章とを繋ぐ役割を果たしている。というのも、檀一雄太宰治との「異同」や、檀一雄三島由紀夫との「異同」が論じられているからだ。おそらく、それが本書の表題に示された「に」に現れているのだろ
う。本を作る時の配置の妙というものを見せられたようにも思う。その一方で、たしかに「跳躍」に注目し檀一雄文学の特徴を浮き彫りにすることは卓見ではあるが、それがどれくらいの数の檀の作品を射程に収めうるのかについては、もう少し検討を要するようにも思われた。たとえば、太宰や安吾とは異なり、檀は多くの海外体験があるがそれが彼の文学にいかなる影響をもたらしたのか。また、「石川五右衛門」をはじめとする
檀の歴史小説と太宰や安吾のそれとの共通点・相違点はどのようなものかなど、ないものねだりを承知で読んでみたいようにも思われた。
 「三島由紀夫」の章では、まず「三島由紀夫作品の〈二重性〉」では、「剣」、「殉教」、「孔雀」が取り上げられている。「ある種の三島作品にはリアリズムの〈小説〉としても読め」、「「寓話的」な〈物語〉としても読めるという〈二重性〉がある」と指摘される。「近代能楽集」では、収録作品の「物語内容における二項対立」に注目し、一つひとつの作品の「読みの楽しさ」を味わうことが目指されている。「金閣寺」論では、三島の「死の予兆は、その処女作の頃」から感得されるのであり、「金閣寺」にも「死の予兆を思わせる旋律」が随所に見られると指摘される。主人公の眼を通して、「戦後社会」が「醜く」描かれるのであり、「金閣を焼くことは、三島にとっ
て戦後社会を焼け滅ぼすことを比喩」したはずだという。

 以上、四人の作家を取り上げた本書を概観してきたわけだ
が、ここのテクストの分析を通して、作家の像が結ばれていく
といった手法が一貫して採用されている。最終的には、文学史
の体系へと繋がっていくことが想定されているようにも思われ
るのだが、太宰治坂口安吾檀一雄三島由紀夫といった四
名を並べることで見えてくる文学史とはどのようなものなのだ
ろうか。

 最後に、これは本書の瑕瑾とはならないため、事実誤認を二
つ指摘しておきたい。一つ目は、「何やらゆかし、安吾と鴎
外」の中で、「「二流の人」は安吾初の歴史小説」とある箇所。
安吾初の歴史小説は「イノチガケ」である。「イノチガケ」は
一九四〇年発表、「二流の人」は一九四七年発表である。二つ
目は、「《後書き》」の中で、『解釈と鑑賞』は、「立川の日本文
学資料館などに完備されている」とある箇所。正式名称は、国
文学研究資料館である。
 最後になるが、「生涯最後の本」という宣言を、関谷一郎
自身が裏切って、四冊目の本が刊行される日が来ることを願っ
ているのは私だけではあるまい。前言撤回されることを願って
いる。

 

@ 四冊目を出したら、刺殺(しさつ=四冊)されてもかまわない。

 殺されるのはイヤだ!(イチロー記)