【読む】綾目広治『小林秀雄 歴史のなかの批評』について、その4

 この本の感想が長引いたまま完了していないのを時々思い出しながらも完結できないのは、持ち前のグズが主因だろうけど、やはり綾目さんの小林論であることに興味を覚えないからかな? 高階秀爾ゴッホの眼』に刺激を受けたのは前に記したけど、それを契機に『近代絵画』のゴーギャンの章を面白く読んでいた(小林が面白いのではなくてゴーギャンが面白いのだけど)。次に『近代絵画』のどの章を読もうかと考えた時、綾目さんの書を思い出してピカソの章を読み始めてはいる。小林とピカソではやっぱりミスマッチだから、面白いはずがないと思いながらネ。綾目さんの論(第十章が『近代絵画』の章で、「ピカソ論について」と副題されている)もそれ以外のことを言っているとも思えないから、内容については触れない。

 第6章「ドストエフスキー論」についても同様な印象を感じているので内容には立ち入らないけど、綾目さんが佐藤正英という人の論(未読・未知の人)や森有正の論に共感しているようなところは感心しなかった(殊に前者)。

 

 第9章「戦後の社会時評」に至っては、冒頭に「関谷一郎」の名が出てきてドキッとしたけれど、拙著『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』から

 《戦後の小林の批評は昭和十年代後半から地続きでありそこには本質的な変化、あるいは〈成熟〉と呼ぶべき新たな展開は指摘できない》

 と引用して「関谷氏の言う通りである」としつつも、関谷とは異なり小林を外側から眺めて批判を加えている。

 《(小林は)「反省なぞしない」と言うことによって、結局はあの戦争を肯定、少なくとも容認していることになるのである。》

 《おそらく小林秀雄は、戦争がもたらしたものをできる限り小さく見積もろうとしていたと考えられる。》

 小林秀雄に限らず、文学者の言動を外側(社会的視野)から批判するのは誰でもできる簡単なことで、そうしたところで対象(文学者)の文学の核心を突くことはできない。小林にしたところで、綾目さんが期待(想定)するような確固とした〈思想〉など持ちえなかったのは、取り立てて言うまでもない。「結局は~なるのである」という批判の仕方は何にでも言えてしまうので、インネンを付けるだけに止まるだろう。「小さく見積もろうとしていた」とはゲスの勘ぐりに類するもので、小林を引き下げると同時に批判する己をも引き下げるだけだ。それ等の言い方はいずれにしろ不毛(言っても無駄)に終る、というのがボクの考えだ。

 詳細は拙著に展開したので(参照してもらいたいけれど、)くり返さない。

 

 第7章「歴史論―-京都学派との共振」と第十一章「未完の『感想』」は綾目さん得意の思想論なので、田辺元をはじめとする京都学派や未完に終わったベルグソン論について何の知識も無いボクが口をはさむのは控えたい。先行論はあるけれど、綾目さん独自の切り口も当然あるだろうから、それを楽しめるのは確かだろう。

 第1~5と8章(全部旧稿)は未読だし、今やまったく関心の無い時期の小林を論じているので、綾目さんの論とはいえ読む気が起こらないのでスルーしたい。

 ともあれ、小林秀雄について論じたものを読みたい人には、安心しておススメできる書であることは間違いない。オソマツな小林本が氾濫して危険だからネ。