【釣り部】余談(2)  長谷川櫂  秋山虔

 大阪やアメリカの話は往きの車内だったけど、夜の呑み部ではそんな野暮な話は出ない。ユウ君が東京新聞(朝日や毎日よりも闘っていると聞いたので、1週間試し読みをしたことがあったけど、文化欄の充実ぶりで朝日のままでいる)の切り抜きをくれた。長谷川櫂という自力で一派を築いた俳人朝日新聞の選者)の「私の東京物語」という連載で、東大法学部に入学したものの進路選択の誤りに気付いて転部(駒場から本郷へ行く3年生になる時に、具体的に所属部が決まる)しようと思い、文学部の秋山虔先生に相談に行ったそうだ(ズウズウしい!)。赤門隣りにあった学士会館分館(今は無いとのこと)でランチをご馳走になりながら(先生らしい親しさ!)の相談だったそうだ。後日電話をいただいて「文学を仕事にすると、文学を純粋に愛してばかりいられなくなる。法学部を卒業して職業につき、趣味として文学をつづけることを進めたい」(記事のまま)と言われ、目の前の霧が晴れたようになって法学部を卒業して読売新聞社に入社したそうだ。二十数年勤めてから辞め、文学の仕事に転じたとは知らなかった。

 

 秋山先生にまつわる個人的な思いは以前にも書いた記憶があるけど、何故か学生の頃から注目していてくださっていて、院の「紫式部日記」の演習では近代バカ(近代文学院生の自虐の自称)のボクにもかかわらず、ずいぶんと気を遣っていただいたものだ。院生時代には川崎予備校という大手の予備校(小中学生)で、中2生に英語を教えていたけれど、ある日指導教員の三好行雄師から「秋山さんに電話してください」と言われて何ごとかと思って指示どおりしたところ、宇都宮大学教育学部の教員にならないかという話。すぐに「教育学部で自分が教えることなどありません」(東大の教育学部が念頭にあったので)とお断わりすると、「自分の専門をやっていれば良いようだ」と言われたのでお受けすることとなった。

 その場にいたのは宇都宮大学出身としてはアマッチだけだったけど、そこまで打ち明けた話は初めてだったようで、ユウ君が聴き入っていたネ。秋山先生と越智治雄先生は直に褒めてくれたものだったけど、指導教員の三好師は含羞の人でナマな褒め言葉は避けていた印象だった。最初に活字になった小林秀雄論で、三好・越智両先生を含む「文学史の会」の共同研究が小林の作品を取り上げたものを「愚論」呼ばわりしたら、越智先生はすぐに長いお手紙で「共同研究で議論したけれど、各作品論は分担して書いたので自分の考えとは異なることが書かれている」という丁寧な説明をしてくれたので生涯の感激として残っている。三好師はボクのいないところで、「あれは関谷君の言うとおりだ」と言ったと伝わってはきたものの、直接には聞いていない。(以下略)

 などという打ち明け話は、えらくユウ君が気に入ってくれたようだったネ。