【ヒグラシゼミ】未完のレジュメながらも議論は充実  呑めたのは何より

 最初にお詫びしなくてはならないのは、レポーターとしては単行本『茄子の輝き』全体を論じるつもりだったのに、ボクが勝手に単品と勘違いして皆さんにその旨の情報を流してしまったこと。いつも言うとおり、発表作品は短篇を原則にしているので、てっきり今回も短篇1つに限ったものと思い込んでしまったのが敗因。発表者からも例外的に単行本1冊でもかまわないか、という確認も無かったからだネ。そのためボクのみならず、単品だけしか読んでないままの参加が出てしまった次第。

 

 「記憶」をキーワードにテクストを読み解こうとした発表だったけど、十分に練る時間が足りなかったのか、あるいは「記憶」というキーワードが大き過ぎてテクスト分析に役立てるのがそもそも無理だったのか? 

 発表を聞き終っても何を言いたいのか伝わってこなかったので、すぐにその点を質したのだけどまとまってないという返事。というわけで質問中心の論議となった。

 現代文学に疎(うと)いボクとしては、発表者が例示してくれた柴崎友香小川洋子等と共に滝口悠生が「記憶」をテーマにしていると教えてもらえたのは良いけれど、(小川洋子だけは読んだことがあるものの、)「茄子の輝き」が滝口作品を読んだ3作目なので「記憶」で現代作家のテーマが括(くく)れるというのは納得しにくかった。

 「記憶」と言えば誰しも「失われた時を求めて」のラストのマドレーヌを想起するだろうけど、現代日本の作家の「記憶」とはあまりに異質で参考になりそうにないようだ。滝口テクストにはマドレーヌに行き着かないこと自体を語っているようだ。発表者は近代日本作家の「記憶」として大岡昇平を上げていて、それはその通りかもしれないけど、個人的には梅崎春生の「幻化」がすぐに想起されるネ(ボクの一番好きな小説なのでおススメ!)。戦中の死と背中合わせになっていたために増幅された生を描いたのが「桜島」だとすれば、それから20年経った昭和40年代の経済的繁栄の中で希薄化された生のために精神科に入院していた主人公が、脱出して自己の生が燃焼していた頃の場所(桜島付近)を訪れる話だけど、ラストの場面が極め付きの感動!

 梅崎の「幻化」もマドレーヌに行き着く話だから、滝口とは似ても似つかない。でもあえてマドレーヌに行き着かないことを語り続ける意味や、方法の位置付けを考えるとテクストに近づけることができるかもしれないネ。

 ともあれ充実した議論を踏まえながら発表者がリセットして、テクスト分析を詰めて6月26日の学大学会で再発表するので(2時20分~)、対決できるように皆さんも己の読みをシッカリ構築しておこう。

 

 幸い開いていた店があったので、ヒッキ―先生・発表者・司会者を慰労しつつ楽しい時間を過ごすことができた。