【読む】疋田雅昭『トランス・モダン・リテラチャー』のおススメ  千田洋幸の研究書3冊との対照

 《「移動」と「自己」をめぐる芥川賞作家の現代小説分析》という副題を持つ書で、ひつじ書房出版・5800円+税だから著者割引で5000円で売ってもらえるヨ。索引を含めて580ページほどで厚さ3㎝超、実に重いのは充実した内容だからでもあるので、5000円でも安いネ。

 中身は副題のとおりだけど、ポスト・モダンという観点からでは把握しにくくなった現代文学をトランス・モダンという視野に切り換えて分析したもの。などと簡略化して言い尽くせるわけもないけど、序文で「移動」に「トランス」というルビが振ってあるところがヒントかな。「移動」は主に時空間における移動ではあるものの、それに限らず多様な局面でも「移動」の観点から分析されるところが斬新だと思えた。それに比べると「自己」(「アイデンティティ」のルビあり)の視座は目新しいものではないながら、これと「移動」をからめて分析している点では刺激的だ。

 《「移動」に注目することでいかに「自己」という「現象」(=「声」)を聴き取るか。小著における「トランスモダン文学」とは、こうした企てに基づく読みの実践である。》(「序」)

 「読みの実践」とくればまさに同好の士なので心強いかぎりだし、《この小著はテクストの細部の読み自体に多くの紙幅を割いている》(同)とまで言われると、「テクストの細部を立ち上げろ」と強調してきたボクの骨を拾ってもらえる心強い存在に出遭えた思いで、安心してくたばることができようというもの。もちろん漫画もドラマも含めて何でも知ってる視野の広さや、種々の理論を正確に吸収して援用できる能力の高さも合わせ持っている疋田氏(距離を置いて記しているので「ヒッキ―先生」ではない)の、十数年間の現代小説論の成果である本書の達成は他に類例が思い浮かばない。

 もちろんボクが現代文学に疎(うと)いので現代小説論にも無知だということもあるだろうけど、これだけ多様多種の作家・作品を対象に縦横無尽に論を展開し得る批評家・研究者などいるとも思えない。去年『読むという抗い』(渓水社)で強い感銘を与えてくれた、サブカルや理論に詳しい千田洋幸氏の幅広さも想起されるけれど、論じられている現代小説家の豊富さからすると、疋田氏の書が圧倒的である。

 逆に言うと、千田氏の著書には『テクストと教育』(渓水社)・『危機と表象』(おうふう)を含めて鷗外・漱石を始めとする「定番」作家が並んでいるものの、疋田氏の本書にはそれ等の作家の名が欠落している。本書に収められた論文のいくつかは抜き刷りをもらった時に既に読んでいるものの、疋田氏からもらう抜き刷りには志賀も太宰も含まれていないのが、唯一ボクの心残りのタネである。(それにしても千田洋幸と疋田雅昭というハイレベルの研究者がそろっている学芸大学はスゲエ! 日本と言わず、世界のトップクラスだネ。)

 そもそも研究者は目の前に生きている作家を論じるべきではない、とするボクの立場からすると本書はレッド・カードの集積のようなものでもある(ボクも一橋大院の授業以来の付き合い故に、松波太郎氏の新刊の書評だけは引き受けたけど)。でもそれはあくまでもボクの立場なので、疋田氏をはじめとする若い世代の研究者が現代の作家を論じて悪いわけでもない。ボクが心配するのは、論じた当の作家が10年・20年後と言わず、将来残っているかどうかだ。せっかくの優れたテクスト分析がなされているのに、対象となった作品が価値を失って消えてしまう可能性が無いとは言えないのを「老爺心」から危惧するのだネ。

 信じがたいかもしれないものの、ボクの学生時代には高橋和己が今のハルキのように広く読まれたものだ。それが今ではどうだ? 読んだことのある若者に出遭うのも稀となってしまっている。研究対象としてもほとんど無視されたままのように見える。疋田氏の本書が将来存在価値を失わないためにも、論じられている作家が消えないように祈るばかりだネ。

 

@ 想定を超えて字数が増えてしまったので(いつもながら)、目次などの紹介は改めて記します。