【ヒグラシゼミ】滝口悠生「茄子の輝き」 学大国語国文学会・佐藤隆の発表(増補版)

 たった今、やっと短篇集としての「茄子の輝き」を読み終えたヨ。学会までは3ケくらいしか読めてなかったのだネ。レジュメや学会の案内をメール添付で配信するなど、裏方としての作業もあったけど、基本は作品に魅力を感じないからだ。「死んでいない者」のような圧倒的な面白さに欠けていて、読みたいという気持を起こさせないのだネ。学会が終ってからも野球中継を見ながら読み続けて何とか全部読んだけど、別立てされているような「文化」をはじめ完成度が低くて散漫なのだナ。作品集全体としても求心力に欠けている感じで、テーマ(集約点)が捉えにくい印象だ。昔風の私小説を意識してズラしながら、ヒューモアを出そうとしているのかな? 

 

佐藤隆「記憶を記録すること――滝口悠生『茄子の輝き』を中心に――」

 

 滝口悠生を読み込んでいるサトマン君が「記憶」に注目したのも納得だけど、上手く料理しきれない手付きの苦しさばかりが伝わってきたネ。あらかじめ送ってもらったレジュメを読む余裕がなかったので、発表をオンラインで聴きながら(初体験)レジュメを読んでいた。片桐雅隆という人の書からの引用でアルヴァックスの「集合的記憶」を援用しようとして、主人公と千絵ちゃんと後輩の小麦谷の3人を「集団」としてくくってしまっていたので驚き、「集団」の位相(レベル)が違うだろうにと感じた(片桐氏もアルヴァックスも知らないけど)。

 片桐本からの引用からしても、アルヴァックスの言う「集団」は広がりを持った共同性を思わせるが、3人の「集団」は偶然に集まっただけのまとまりでしかないので、一緒にできないと思う。むしろ千田先生からの質問でもあった「地震」こそが、「共同的記憶」として読めるのではないかと思った。

 《先にわれわれは自己同一性が、生物的身体的な不変性や一貫性によって確保されると考えるのではなく、それが個人誌的作業あるいは物語行為によって構築されるという視点を示した。そこでの個人誌的作業や物語行為は、自己に閉ざされた営みではなく、何を物語に組み込むかは、集団のメンバーとして、また集団の枠組によって規定されるのである。》(片桐雅隆『過去と記憶の社会学』)

 サトマン君は「物語行為」にも着目していたと思うけど、短篇ごとに「記憶」が異なってしまうような語り口からすれば、語り手(主人公)の「自己の同一性」の在り方こそを問題にすべきではなかったかな。片桐の言うように、主人公の「自己同一性」はそのつどの「物語行為」によって「構築」されるのであるからこそ、「記憶」内容がそのつど変ってしまうと論じた方が納得しやすいと思う。例えばレジュメで以下のことにこだわっているのも、語るたびに主人公の「自己同一性」が改めて「構築」されるのであり、そう考えれば「記憶」の誤りと断じるのは無意味ということになる。

 《現在の「私」が五年前の震災を回想する場面で、宇都宮の伊知子の実家に電話をかけて、「茄子の輝き」では伊知子の母が出たのだが、「街々、女たち」では父が出たことになっている。》

 ヒッキ―先生お得意のジャズ(父君はジャズ音楽家だった)にたとえれば、「ジャズに名曲なし、あるのは名演奏だけ。」という名言のとおりで、この作品集には1つの事実(オリジナル)は無くてヴァリエーションが並んでいるだけ、ということになる。

 (長くなりそうなので、いったんここで切るネ。)