【読む】滝口明祥さんの『シドクⅡ』書評、参りました!  滝口明祥『井伏鱒二と「ちぐはぐ」な近代』

 アマゾンのワナに手間取ったせいもあって、『昭和文学研究』第83集に載った滝口明祥さんの『太宰・安吾に檀・三島 シドクⅡ』の書評を紹介するのが遅くなってしまった。『日本近代文学』の書評の時は、お互い未知の柴田勝二さんに気苦労をおかけしつつ、メンドクサイ存在であるセキヤの書評を書いていただいたけれど(感謝!)、今度はむやみとセキヤの著書を読み込んでいるらしい滝口さんだったので安心して読めたヨ。まだ1度しか通読していないけれど、プラスもマイナスも把握していることが気味悪いほど伝わってきて感服、ありがたい限り、感激だネ! 全文ここに引用したいくらいだヨ。 

  聖心女子大院生の頃からずっと論文指導してきたヨコチン(木村(瀧)陽子さん)が 有り難いことに大東文化大学に就職できた年に、昭和文学会の会場 が大東大になったのを幸い、ケンゴー(藤尾健剛)さんにお礼の挨拶かたがた大東大へ行ったら、キャンパスで偶然にももう1人の同僚・滝口さんにお会いできたのでお礼のご挨拶ができたヨ。初対面の印象では人の良いお兄さんだったけれど、こんなに切れ味のイイ書評を書く人とは思えなかったネ、理解力がハンパ無い頭の良さを感じるヨ。

 《前著『シドク』において、氏は「ポシビリティ(可能性)」ではなく「プロバビリティ(蓋然性)」に基づくことの重要性を述べつつ、次のように続けていた。

 (引用は略)

 ここで著者は、研究における客観性を重視しているように見えるが、その前提として、主観性なしの文学研究などありえないという認識が著者にあることを見逃してはならないだろう。(略)しかし前著に比べて、その主観性と客観性のバランスが微妙に変化しているようでもある。》

 何だかずっと秘密にしていたものが、簡単に見抜かれてしまった感じで畏れ多いヨ。研究における「主観性」という問題は出発時から背負い続けていたので、ボクの論には挑発的に「主観性」がにじみ出ることがあったのではないかと思う。学部生の頃に書いた「生涯最初の文学論考」である「『金閣寺』への私的試み」を『シドクⅡ』に収録したのも、この文脈で理解してくれているのも脱帽だネ。

 

 《なかでも「『火宅の人』--〈泳ぐ〉人々」は、檀一雄私小説であるとされがちな作品に対して、「〈泳ぐ〉人こそが頻出しつつテクストを貫いている」という鮮やかな指摘を行っている。(略)実はこの作品の根幹は「〈泳ぐ〉人達の「熾烈な生命の本能」」であると言うのだ。前著『シドク』において、「自然」というキーワードに注目しながら、志賀直哉「和解」の作品内論理を鮮やかに解き明かした著書らしい冴えを感じることのできる章だと言えるだろう。》

 実に良く分かっている人の言だネ、「火宅の人」論は一番の自信作で本書を代表する画期的な論だという意味で、前著の「和解」論に相当していると思う(ただし「和解」論が「自然」をキーワードにしているとされると違和感があるネ)。滝口さんがここまで言えるのは、「火宅の人」をテクストとしてキチンと読もうとしている証拠だネ、ほとんどの読者が(研究者も)ストーリーを楽しんでいるだけだろうから。

 

@ 長くなりそうだから、いったん切るネ。