【ゼミ部】ナマ参加者15名超!  学部生も発言多数   処女と童貞のスレ違い(イチロー)

 短篇なのに講演は1時間半を超える長さで、高田先生の蓄積の多さと人並み外れた話し好きを表わした感じだった。以前「ガラスの靴」論を書いたことのあるヒッキ―先生(ネットで読める)がいきなり高田先生と空中戦を始めのは、地上戦(参加者同士の議論)が基本たるべきゼミのやり方じゃないから困ったネ。ゼミはテクストの読み方を競うところから始めるのが基本だからネ。(以下は未発表のもの故、守秘義務のある高田論の肝心な所は伏せながら、ボクの読み方を中心に書くことにする。高田論の印象だけ付しておけば、テクストの細部を二項対立的に決めつけすぎて、テクストの豊さを限定してしまっていると感じた。)

 

 《悦子がまったくの少女にすぎなかったことが、あきらかにされたと思った。》

の「思った」を高田先生が強調したのを忘れてはいけない。極めて大事なことなので銘記してもらいたいが、〈一人称小説〉であるから「僕」の気持は語ることができても、悦子の気持は「僕」が推し測るしかない。というわけで悦子側の気持をどう読めばイイのか、という問いを投げかけて議論を挑発したら学部生も反応してくれたので楽しかった。

 一番議論になったのは、悦子がなぜ苦労してまで「僕」に会いに行ったのか、という疑問だった。誰もが「分からない」とくり返していたけれど、ボクに言わせれば悦子の抑圧された欲望(性欲と言うと強すぎて反発されると思われるので)の現れと読めば済むと思う。皆さんが概して清潔に読もうとしているので驚いたほどだけど、悦子の意識しないコケットリーをきちんと押えておかないと「分からない」ことばかりになってしまうと思う。この年齢の処女独特の無意識なコケットリーに「僕」が振り回されるのは笑えるものの、読者が一緒に振り回されては笑うに笑えない愚かさだということだ。

 悦子の無意識な(時には意識的な)誘いは随所に読みとれる。

 《よかったらときどき遊びに来てくれと云った。》

 《そう云って彼女は、僕の肩によりかかって泣くのだ。》

 《僕は髪の毛をかきあげて、耳タブに接吻した。悦子は僕のするままになっていた。》

 《「あなた、こっち側から食べる?」

  と、口にくわえたパイを僕の前にさし出した。》

 《彼女は僕の腕の中で、「一度だけ。・・・一度だけよ」と僕を避ける。》

 《「ううん、いやだったの、何だか人にきいたりするの」

   悦子は肩を僕の胸にすりよせるようにしながら、そう云った。僕は彼女を抱いた。(略)僕のシャツの左の胸ポケットに入っていた大きなパイプを、どけてくれるように頼んだ。》

 《からみつく彼女に自由をうばわれるて僕は何べんも倒れそうになった。》

 《悦子は二度僕の手をふりはらっただけでもはや抗(さから)いはしなかった。もっと悪かった。彼女は毀れた人形みたいに両眼をポッカリあけてその軀を投げ出すように横たえていた。》

 《彼女は何もしらない笑顔で、

  「・・・駅まで、送ってくれる?」》

 これだけ悦子が誘っているのに、「僕」と一緒になって彼女を童女に止めておきたがるのはアホだろう。「僕」が悦子を性に無頓着な童女に止めてしまうのは、「僕」が童貞の自己制御に縛られているからだ。悦子は性に関心を抱きながら、場合によっては処女を捨ててもかまわないと消極的な決断をしているのに、処女の優柔不断な態度を理解できぬまま拒否されたものと一方的に思い込み、悦子に怒りをぶつけてしまう「僕」のコッケイさを笑える余裕がないと誤読するだけだ。性欲を自覚して息巻いている童貞の「僕」の、思い切りの悪さの例を拾い上げる労をとる必要はないだろう。

 

 最後の場面で悦子が「僕」を完全に拒絶していると決めつけるのは、テクストに清潔感を強いることによって一組の男女、それも処女と童貞との稚拙な探り合いの微妙さを読み落とすことになる。童貞ではない友人の塙山に「すがりつくよう」に助言を求める「僕」の、哀れなまでのコッケイさは十二分に楽しむべきだ。駅まで送るように頼む悦子に、「いやだ、・・・絶対にいやだ」と言い張る「僕」の未熟さは、童貞のもの以外ではない。悦子が抵抗しようが己の思いを遂げることができず、2人そろって現実逃避の「夏休み」(「ガラスの靴」というファンタジー)に留まる結果となるほかない。

 

@ ミチル姐さんから、ヨックモックなどの高級差し入れをいただいたことを付しておきたい、ゴチソーさまでした!