【読む】曾根博義・自由間接話法(その2) 「100分 de パンデミック」  ウルフ「ダロウェイ夫人」  『シドク』

 正月の特別番組で「100分でパンデミック」(Eテレ)というのがあって、もうコロナはいいヨと思ってスルーしていたら、何とパンデミックを語った文学作品を取りあげていたので嬉しい悦び。それも最初はいま個人的に注目している、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」を未知の女性が取り上げていた。あまり文学に詳しい人じゃないらしく、物語内容だけに注目しつつヒロインが見聞している事象からスペイン風邪を読み取っていた。出席者の1人・高橋源一郎スペイン風邪に気付かなかったと言っていたけど、まだ冒頭の20ページくらいしか読んでないボクには有益な指摘だとありがたかったネ。

 ともあれウルフと言えば物語内容ではなく「意識の流れ」という《方法》の作家として文学史に残る存在であり、個人的な関心で言えば「自由間接話法」の問題を考える素材を提供してくれる作品を残している。30年も前のエッセイなので参照しにくいと思い、前回紹介した曾根さんの「自由間接話法という鏡」を長めに引用しながらこの話法の問題を提起しておこう。

 《直接話法と間接話法の中間の話法ないし文体で、二十世紀になってJ・ジョイスやV・ウルフをはじめ多くの作家がこの手法を使うに及んで一般の関心を集めた。(略)一般に人称や時制は間接話法と同じように三人称、過去形で表わされるが、伝達動詞を欠き、発話の直接性、主観性は保持されるので、伝達者(語り手)が発話者(作中人物)のなかに潜り込んでその声を伝えている印象を与える。(略)

 人称や時制の明確な言語を持たず、十九世紀的な客観小説の伝統もないわれわれ日本人にとって、この話法を正しく理解することはなかなか難しい。昭和初期にジョイスやウルフの小説を紹介した伊藤整その他の文学者は、この文体につまずいたり、苦しんだりしたあげく、それについて深く考えることをやめてしまった。》

 《これらの外国語・外国文学研究者の地道な研究は、日本で欧米の小説における理解を得るための便宜をあたえている。そのことに十分感謝と敬意を表した上で、しかしそこに図らずも現れてしまっている日本語と日本の近代小説に関する無知と誤解は、われわれ自身にとっても決してないがしろにはできない問題だといいたい。戦後の日本の小説に自由間接話法にきわめて近い表現が数多くあることは、驚くに当たらない。その例は戦前の小説にもいくらでも見出せる。しかもそれらは西欧の小説の話法の影響ではない。》

 これだけでも曾根さんがいかに早くから自由間接話法に着目しつつも、それが抱える問題を安易に日本語・日本文学に持ち込むことに禁欲的な姿勢を維持していたかが窺えよう。ボクが当初から自由間接話法という術語の使用を避けたのも(他の術語一般も避け続けてきたが)、『シドクⅡ』の前書きで記したとおり「他人のフンドシで相撲をとる」危うさに腰が引けたからだ。そう言えば最初の『シドク』に収録した太宰の「桜桃」論は、『太宰治』(洋々社)という雑誌の「桜桃」特集で曾根さんと競演した論文でビビったものの、刊行されてからは曾根さんの方からボクの論を高く評価してくれたと判り、スゴク嬉しかったのを思い出した。「人称の揺れ」という副題を付したこの論が、あるいは自由間接話法の問題に苦慮していた曾根さんを多少なりとも動かしたと思えば、喜びもひとしおということになる。

 『シドクⅡ』を読んでいただくことができないのが、今さらながら無念きわまりない。