【読む】北川秀人さんの太宰論(「富嶽百景」論など)(1)

 学大卒(院修了)の北川秀人さんが送ってくれた太宰作品論の感想を北川さんにメールしようと思ったものの、皆さんも高校生の頃に読んだり・教室で教えたりした経験がある「富嶽百景」も論じているので、ブログで紹介することにした。北川さんは私立高校で長年教壇に立っていたところ、一昨年1年間の内地留学で学大の先輩の野中潤さんが勤務している都留文科大学へ行き、野中さんの指導下で太宰研究論文を2本発表したとのことだ(先日のブログで紹介したとおり)。

 「富嶽百景」論が都留文の紀要に掲載されていること自体が、北川論文のレベルの高さを示していると言えるだろう。「富嶽百景」論が過去何百本書かれているのか不明ながら、それ等との差異化を図りつつ独自の論を構築するのは並大抵のことではない。最初はあまり期待せずに何となく読み始めたところ、冒頭からし松本和也安藤宏という太宰研究を領導してきた2人の論を提示していたので、手強さを感じていったん回避してもう1つの「花火」論にとりかかったヨ。「花火」論の感想は後で付すことにして、「富嶽百景」論を紹介するので授業や読書の参考にしてもらいたいネ。

 松本さんの『太宰治の自伝的小説を読みひらく』(立教大学出版会、2010)は頂戴したまま「思ひ出」論Ⅱしか読んでなかったので、これを機に「富嶽百景」論も読むことができた。安藤さんの論(2007)は掲載された『太宰治研究』(和泉書院)が自家には7・8冊くらいしかなかったので読めなかったけど、北川さんによれば、

 「私」の生活者としての再生の物語と、「私」の小説家としての再生の物語とが同時進行する構造を持っており、安藤さんは《両者は相互に連携しつつも実は微妙なズレを含んで》いると論じているとのこと。いかにも安藤さんらしい「賢しら」なツッコミ方だけど、そんなメンドクサイ問題に北川さんは真正面から切り込んで結果を出して能力を示している。ボクみたいなイイカゲンな人間は、そんなことわざわざ問題にするまでもないじゃないかとスルーするのだけどネ。松本論も言うように、

 《「私」の生活人としての困難にしろ「単一表現」獲得への煩悶にしろ、この「富嶽百景」を「私」が書きおえたことで解決されたはずなのだ。》で十分だと思うネ。

 

@ 長くなるのでいったん切るネ。