【読む】北川秀人さんの太宰論(6)  《同一化の連鎖》

 「花火」についての話が長くなり過ぎたので、そろそろ締めたいネ。

 前回示しておいた、気になる問題だけを付して終りにしたい。『シドクⅡ』の巻頭論文で、太宰文学と志賀文学との共通性として上げた「〈同一化〉の連鎖」が、「花火」ではどうなっているかということネ。肝心の末尾の妹の言葉によって、読者は「突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑い」を覚えるのは確かだけど、妹自身の気持を考えてみると単純ではないようだ。

 『シドクⅡ』では「人間失格」と「ヴィヨンの妻」の結末の言葉を取りあげている。

 《「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、・・・神様みたいないい子でした。」》

 《「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」》

 共に主人公を他の人物が救い・癒そうとしているのは明らかだろう。シドクでは

 《主人公・他の人物・語り手・作者・作家という〈同一化〉の連鎖こそが、志賀文学と太宰文学との共通点だと言っておこう。》と論じているけれど、「花火」の妹の言葉

 《「いいえ、」少女は眼を挙げて答えた。「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。」》は一見する限り上記2作品の言葉とはうらはらのように見える。しかし「表現としての」背反性ではなく「本質的な」同一性に考えを集中させれば、妹は兄を排除しているわけではないことに思い至るのではあるまいか。自分を持て余して苦悩する兄は、死ぬことによってしか救われないことを認めた安堵の念が読みとれると思うのだ。兄は兄で、己が死ぬことで家族が「幸福」になることを自認しながら甘んじて死んで行ったものと思われる。

 そこまで考えれば、一読不条理感を残して終るテクストでありながらも、他の太宰作品同様に救済の物語として着地した作品として受容できるというものだネ。

 

 北川論では《同一化の連鎖》中の「語り手」である「作者」が、「敢えて内面に関知せずに語る」と指摘しているのは正確ではあるけれど、真銅正宏論のように「読者は、この節子の献身ぶりに、却って兄への不快感を募らせていく」点を強調しすぎて兄への「懲らしめ」まで読んでしまうと、「作者」(語り手)の意図とは外れてしまうのではないだろうか。「人間失格」の葉蔵も「ヴィヨンの妻」の大谷も一般の読者には「不快感を募ら」せがちながらも、作品としては救済の物語としての着地を果たしていると思う(筋金入りの太宰嫌いの読者はハナから読まなければイイだけの話)。「作者」は妹の微妙な「内面」をソツなく見事に語っていると思うのだけど、どうかな?