【見る・読む】源頼朝  鎌倉  「英雄たちの選択」

 昨夜の「英雄たちの選択」は頼朝の再放送だったけど、興味があれば来週の午前8時から再々放送するから見るとイイね。個人的には新しい情報が得られて興味深かったヨ。鶴岡八幡宮の東側に御殿の跡が発見されたということで、その建物が宇治の平等院に似ているとのこと。頼朝の邸宅や政所もその近辺にあったというのだから、鎌倉のイメージがだいぶ変わったネ。鎌倉と頼朝とのつながりが前景化してきた印象だヨ。

 

 頼朝といえば「鎌倉殿の13人」で頼朝役の大泉洋が彼らしく笑いをとっているのは三谷幸喜のシナリオどおりなのだろうけど、史実を無視して勝手に三谷ワールドが展開されているのかと思ったら、けっこう歴史的事実に沿ってもいるのが分かったヨ。数巻だけ自家にあった中央公論社の『日本の歴史 7 鎌倉時代』を読んでいたら、かなり「鎌倉殿~」の頼朝の発言に類似したものが記述されていて驚いたネ。

 《伊豆や西相模の武士たちを一人一人別室に招き入れては、「この秘密はとくにお前だけに相談するのだが」と前おきして、(略)「本当にたよりにできるのはお前一人だけだ」と口説かれた武士たちは、それぞれが兼隆襲撃への協力を誓った。》

 兼隆とは北条義時小栗旬)が顔を水たまりに足で踏みつけられた山木兼隆のことで、兼隆の館を襲撃して首を取った場面は放映されたとおりだけど、兼隆殺しはテレビで強調された義時の恨みではなく頼朝の戦略だったというのが史実だネ。しかし頼朝の蜂起はそこまででその後は歴史に残る石橋山の闘いに敗北し、なんとか死地を脱して安房に逃れたとおりだ。むかし永井路子の「炎環」という歴史小説を読んだ時、石橋で簡単に敗れた後になぜ遠い千葉県まで東京湾を渡ったのか、その後はけっこう簡単に勢力を増していって平家に勝ってしまったのかが不可解だったけど、この歴史書を読んだらよく解ったネ。

 「古事記」の倭建(やまとたける)の記事にもあるように、走水(や浦賀)などから千葉県の安房・上総・下総へ渡るのは実は古東海道のコースだったそうだ。そう言えば我々釣り部でも帰路は金谷から久里浜までフェリーを利用するのが常だしネ。頼朝が上陸したという海岸でも釣りをすることもあるヨ。歴史書も言うように家康が江戸幕府を開くまでは湿地帯だったので、神奈川と千葉は海路の方が手間取らないというのは納得だネ。千葉県で頼朝が急に勢力を拡大できたのは、例えば千葉氏は早くも北条の館にいた頼朝の所に出入りしていたというので驚いたネ。歴史書によれば、坂東武者が抱き続けている父・義朝に対す敬愛や、平家討伐の令旨(れいじ=皇子が出す文書)を掲げて挙兵した源頼政の旧領が伊豆国だったこともあって、源氏に対する支持は根強かったということだ。

 

@ 長くなったので、いったん切るネ。