【読む】山本勇人の小林秀雄論(1)  『日本近代文学』第106集

 「読む」コーナーでボク自身が読んだ本や論文の紹介が減っている印象があると思うけど、プーチンの侵略批判を続けていた時ももちろん何も読んでないわけではなかったサ。1度チラッと記した気もするけど、実は山根龍一『架橋する言葉 坂口安吾時代精神』(翰林書房)を昨年末に贈られてからずっと手こずっているのだネ。在職中から一番興味を持ち続けている安吾を中心に論じられているのみならず、小林秀雄についてもかなりのスペースを割いているので読み続けているのだネ。しかし言及されている論文(大原祐治や松本和也等々)を読み返したり、たくさんの未読の安吾作品を読んだりとかでものすごく時間がかかっているヨ。そろそろ礼状代わりの感想をブログにまとめないと山根さんに申し訳ないと思っているところだネ。(名前が出てきた大原さんの新著もいただいたばかりだけど、少しは読んでからここに紹介する予定。)

 

 山根さんへの礼状が遅れそうな原因の1つは、珍しく小林秀雄を論じることができる若い人(たぶん)を見つけて喜んで紹介しておきたくなったからだ。テクスト論が流行ってからは小林秀雄が見向きもされない状況が続いて、小林を専門に研究する若手が現れていないからネ。そんな中で『日本近代文学』最新号を見たら珍しく小林秀雄論が載っていたので、「戦時下の」小林を論じるという副題にも誘われて読み始めたのだネ。

 山本勇人「〈沈黙〉する批評言語――戦時下の小林秀雄における歴史表象ーー」

 最初のうちはボクが未読の新資料が多い(小林研究を引退した心境だったから?)ので面食らったけど(中には『すばる』に載ったものなど立ち読みしたものもあったものの)、基本的には今さら自分の小林像は動かないと思ってしまったところがモーロクの兆候なのかな?

 ハイレベルの批評として小林論を書いている山城むつみさんが、戦争期に発売禁止になった雑誌を国会図書館などで破りきれずに雑誌に残された部分を漁っているのを以前読んだ時は、その執念に圧倒されながらもそこまでやって収穫があるのかナ? と大いに疑問だった。小林に関しては、やはり従来の小林像を転換するような新資料は出てこないと考えてしまうのだネ。でも山本さんの意欲にはこれまでも小林論には欠落していた意欲があふれていて、放っておけないのだネ。

 《本稿は、戦時下に〈歴史〉を語る中で案出された哀悼の主体の、異なる位相への変貌という観点から、小林秀雄のテクストを読み替えてゆく。》

 山本さんの意欲は空回りすることなく、新資料のみならず実に丹念に小林のテクストや先行研究を読みこんでいて驚くのだけど(逆に言うとこれまでの若手の小林論はイイカゲンなものが多かったということ)、それだけにこちらも姿勢を正して読まなければならない気持になるというもの。だからこそ「哀悼の主体」や「哀悼の主題」という言い方には違和感を抱かざるをえないのだけど、これに関しては山本さんには別稿があるとのことながら(注9の論文)、そこまで目を通す余裕がないのでスルーしたまま、論の細部に対する違和感を中心に感想を付しつつ皆さんに小林秀雄への関心を刺激したいというのがホンネだネ。

 (続きはボチボチとネ)