【読む】日高昭二さんの大正文学論集  ジャミラのジャミラ(ゴミ屋敷ババア)たるゆえん

 日高昭二さんから大著『重ね書きする/される彼ら』(翰林書房、5500円)と題する大正文学論集(副題)を頂戴しながらも、紹介するのが遅くなっているので心苦しいかぎり。すぐに2編を拝読して浮かんだ感想も脳中にまとまってあったのだけど、なかなかそれを記す余裕がないまま亜熱帯の暑さがくり返されていくばかり。とはいえ引退した身とはいえ、夏合宿はじめ次ぎ次ぎと悦楽の時間に満たされて続けているので、3編目以降が読めているわけでもない。もっとも、この大著とは老後の楽しみとして長く付き合うことになりそうなので、先を急ぐことはないのだけれどネ。その点では前著『利根川 場所の記憶』(翰林書房)とは異なり、本書は「場所」ではなく「大正」という時代の文学を論じているのでボクの趣味にガチハマっているのだナ。

 もちろん昭和文学を中心に論じてきたボクにとっては大正文学は志賀直哉くらいしか知らないため、本書からは無知を啓いてもらう論文が目白押しなので、落掌した時はワクワクしたものだ。この間半年以上にわたって山根龍一さんの『架橋する言葉』(翰林書房)という安吾小林秀雄を論じた新著に挑発されながら、山根論が言及している大原祐治さんや森本淳生さんなどの著書も再読していたので、相手が昭和文学ゆえにムキにならざるをえないため緊張を強いられて心地よい読書ができてないのだネ。その点、日高さんの書は大正文学なので気楽に一読者として楽しむことができるのが利点だネ。

 例えば目次に真山青果「桃中軒雲右衛門」という副題を見かければ、修士の頃に通った(駒場の)越智治雄先生の研究室の棚上に青果全集が20巻もあろうかと並んでいる光景を思い出しながら、先生が青果は傑作揃いだとつぶやいていた姿が現前してくる。もちろん名前しか知らない青果など評価できずにスルーしていたからそんなものかと聞き流したままだけど、桃中軒雲右衛門の名も越智先生が「宮本研がこんど発表した戯曲に桃中軒雲右衛門には漱石がチョッだけと出てくる」と嬉しそうに語っておられたのを覚えているので懐かしい。雲右衛門の名はその後関心があった大陸浪人との関連で出てきたので、日高論を読む前に真山青果を読んでみたい気持が俄然湧いてきているヨ。

 

 とはいえ20本を超える論文が並んでいる本書から最初に選んだのは、これも名前しかしらない生田長江の「円光」という作品についての論だった。理由は簡単で「まえがき」を読んでいたら「円光」の舞台化に大好きな画家・関根正二が関わっているという叙述があったからで、ボクとしては珍しく作品を読まずに論文を読む気になったものだ。実際には論文を読み始めてから、青空文庫で作品も読むことができたのだけどネ。一読してこの時期特有(?)の象徴主義的な作風に困惑しつつ、越智先生の授業で読んだ武者小路実篤の戯曲(「愛欲」?)にもこの手の象徴主義的な作品があって驚いたのを思いだした(その時に思ったのは、実篤は小説はツマラナイけど戯曲は面白いということ)。

 

@ 以上はきのう書いた記事だけど、途中ながら今日は続ける元気がないのでこのままアップしておき、続きは明日以降記したい。

 今日は昨日に続けて2階のベランダにジャミラが放置したゴミを片付けたヨ。中身不明のビニール袋にはタオルケットなどの布製品もあれば、ジャミラの叔母関係の書類などの紙類もある。ビニールも劣化するので雨水が浸み入ってビジョ濡れだったり・カビが生えているのもあったヨ。他には缶詰・瓶詰などの食品類もあったし、アーモンド等の豆類の入った袋もあるのでネズミ(?)が穴を開けて食べた跡があるのも交っていたヨ。4本入りの真新しい電池もあったけど、雨水に濡れて使い物にならなくなっているのも発見したヨ。大嫌いな蚊に刺されながらガンバッタけど、まだ未開封の袋も残っているので、明日続けなくてはならないヨ。そろそろジャミラが盆帰りから戻ってきそうだからネ。それにしてもやりたい放題のゴミ女には呆れるばかりだヨ。

 今日は自分へのご褒美に一昨日ゲットしておいたスパークリングワインをこれから呑むヨ。先日ユウ君と見つけておいたモノで、同じようなラベルでシャルドネ(白ワイン)の瓶もあったけど、夏はやはりスパークリングがイイね! ツマミの1つにはゴミ袋に入っていたカニ缶も開けようと思う。