【読む】日高昭二さんの大正文学論(2)  論に費やされた労力の大きさ

 書中の生田長江「円光」論を最初に拝読したのは、本作に画家・関根正二が関わっていると知ったからだと記した。その後、奇しくも国立の古書店で偶然『関根正二展』(1999年)のカタログ画集を見つけてすぐにゲットできたのは嬉しかったネ。関根の画集はあまり発行されてないからだけど、日高さんの書を読んでいなかったら発見できてなかったかもしれないからネ。

 それにしてもこの「表象としての”光”--生田長江の戯曲『円光』をめぐって」論を読むと、改めて日高さんの研究者としてのレベルの高さ・視野の広さに圧倒される。大学院生の頃に『明治大正期の劇文学』の著者である故・越智治雄師の授業に接し、劇文学の研究には小説を論じるのとは別のタイヘンさが伴うことを痛感し、自分には無理だと思い知ったものだ。日高さんはその劇文学研究のハードルの高さを軽やかにクリアしているようで頭が下がるばかり。 

 劇文学の作品と言う場合、戯曲(台本)を取りあげるのか・演じられた舞台を対象にするのかでそもそも論じ方が異なってくる。舞台を論から切り捨てて戯曲を読むだけならボクにもできるから、1冊目の『シドク』に収録した岡本綺堂の初期作品をアイデンティティをキーワードにしてスッキリと論じることができたわけだ。後書きにも記したと思うけど、この論は越智先生に提出したレポートを元にしたもので先生がいたく面白がってくれたけど、戯曲の試読に限定した幼いレベルに止まっている。『シドクⅡ』に収録した太宰治「春の枯葉」論も似たようなものだネ。

 先生没後に『越智治雄 文学論集3 鏡花と戯曲』の収録論文に引用文のチェックを担当した際には、喜多村緑郎文庫などにまで通って演じられたその舞台の時だけの手書きの台本からも引用されているのもチェックしたので、気が遠くなってしまったものだ。日高さんが論じた作品にはそのメンドクサイ作業が不要だったのは幸いだったけれど、越智先生も通ったという早大の演劇博物館の資料を綿密に調査した手応えは、少なからぬ舞台評などを論文に取り込んでいることからも伝わってくる。

 

 日高さんの知識と視野の広さに基づく連想の展開には付いて行くのがタイヘンで、佐藤春夫の同名の小説「円光」に言及するというのは序の口で、小説のエピグラフの出典を「ドリアン・グレイの肖像」と推察したと思えばそこからアラン・ポーのやヘンリー・ジェイムスなどの諸作にまで及びながら、2つの「円光」に共通する「表象性」を見出すという手付きには圧倒されるばかり。この調子で40ページ近く続く大論文を追うわけにはいかないので、読者自身が苦労しつつ楽しんでもらいたい。とにかく豊富な読み物になっている。

 関根正二は知らない人が多くても、竹久夢二を知らない人はいないだろう。その夢二が秋田雨雀の戯曲作品の背景を担当したとは初耳で、誰しも見てみたい気になることだろう。もっとも同時代の評価は低かった模様ながら、総合芸術たる舞台では著名な芸術家たちのコラボが楽しめるものだ。昔エリック・サティのバレエ「パラード」を聴いていたら、この曲がディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)がピカソの舞台装置で踊られたと知って想像をたくましくしたものだった。台本がコクトーで同時に舞台に踊られたのがストラビンスキーの「プルチネルラ」というのだから、さすがにスケールの違い大き過ぎるネ。

 

@ 日高本の冒頭論文である有島武郎論も読んであるので、機会を改めて感想を記したい。