【読む】山根龍一さんの安吾論(続)  第三章

 以前、山根さんの論文は論理尽くめなので数学の記号で論を展開しているみたいだ、とか書いたと思う。本書の第三章「風博士」論の71ページでは、文学テクストとは思われない論じ方で不快感が先行するため、2度と読みたくない部分だ。もちろん数学の記号で論じているようだというのはこの箇所に限らず、本書全体に及んでいるので困る。理数系の嫌いなボクとしては、山根さんの論文を読むのはキツイし楽しくないということになる。もちろん若いのに(?)問題意識がボク等の世代に近似していて、その地平からぼう大な文献資料を探って論に組み込んでいく労力と能力は人並みはずれていて、ただただ圧倒されるばかりなのだけど。

 副題に「福本イズム・小谷部全一郎・浪漫的英雄主義の内在批判」とあるとおり、今どきの若い研究者(プロ文研究者でもないのに)の口から福本イズムが飛び出してくるとは驚きだった。ボクはジンセイにおいて1秒たりともマルクス主義者であったことはないし、福本イズムはじめ様々な病状を示してきた日本の革命運動についての知識は持っているつもりだ。学生時代にはマルクスレーニンの言葉を使う連中が周囲にあふれていたので、流行りの理論で武装して己の言葉を失ったヤカラの軽さと虚しさはその後の研究人生を通じても感じ続けてきたわけだ。

 一言注しておけば、たった1人だけマルクスの理論を十二分に理解したもの言いをしていた文Ⅰ(法学部)の新入生に出会って驚いたことがある(その後会うことはなかった)。高校時代から読みこんでいたそうでその発言には説得力があったけど、父親が国家の役人なので逮捕を恐れざるとえないため実際の運動には参加できないと語っていたのも覚えている。ボク自身が無知だったせいもあるけど、彼の言うことに間違いはないと感じていたものだ。今のボクは多少とも無知ではなくなったせいか、ぼう大な資料に基づいた山根さんの論の展開でも説得されない場面が少なくない。

 

 山根さんの「風博士」論におけるテクスト自体の基本的読み方には異論はなく、風博士と蛸博士との

 《確執を、「僕」自身の内なる葛藤の擬人化と見なし、作品全体を「僕」による自作自演の一人芝居(モノローグ)として読み解いていく。》

という理解は一番無難なものだろう。山根さんのテクスト読解力の確かさが十分に伝わってくるものだ。しかし風博士と蛸博士との対照を、先行する論のさまざまな寓意(中でもサティとドビッシーに見立てているという村上護はクソだ。この御仁は聞き書きだけに自己限定していた方がハジをかかずに済む)に乗って「新たな寓意の積み上げを試みる」のは控えた方が良かったと思う。それ以上に《時代状況に開かれた歴史的社会的な意味づけ》や《同時代に対する批評性を持った作品》などを読み取ろうとしたのは、墓穴を掘る結果になっていると思う。

 副題の小谷部全一郎というのは、同時代に広く読まれた『成吉思汗ハ源義経也』といういかがわしい本の著者なのだが、この著書が巻き起こした論争をテクストが踏まえているからとはいえ、これと福本イズムとは

 《およそ科学的な検証にたえない観念的な主張――日本資本主義の”強烈没落説”と”義経=成吉思汗説”--をロマンチックに信仰している点で、多分に似通っているからである。》

とするのはいささか飛躍に過ぎると思ってしまうがどうだろう? チープとまでは言わないものの、これでは福本イズムもマルクス主義者も浮かばれまい。

 

 賛同できない点をもう1つ。

 山根さんがたびたび根拠として引用している安吾の「暗い青春」の一節。

 《私は共産主義は嫌ひであつた。彼は自らの絶対、自らの永遠、自らの真理を信じてゐるからであつた。(略)だが、人の心は理論によつてのみ動くものではなかつた。矛盾撞着。私の共産主義への動揺は、あるひは最も多く主義者の「勇気」ある踏み切りに就てゞはなかつたかと思ふ。ヒロイズムは青年にとつて理智的にも盲目的にも蔑まれつゝ、あこがれられるものであつた。》

 山根さんは後半部に波線を引いて強調しているけど、安吾自身は安易にヒロイズムに 打たれて行動するようなタイプではあるまい。「動揺」はしても踏み止まるのは、根本的には「共産主義が嫌ひ」だったからだと思う。無頼派として括られてしまう太宰と一線を画するところであり、本書で論じられているもう1人の文学者・小林秀雄と共通する心性だと思う。

 

@ その小林が論じられている第二部の方が、本書をいただいた頃から読みこんでいるのだけれど、「堕落論」の方はまだ読了していないのでいずれまた!