【イチロー爺(じじ)の青春時代】(1)全共闘運動

 以前ハカセ(近藤裕子先生)へのメールをコピペしてブログを更新したら、エトワル君から学生時代の話をもっと聴きたいと言われたのにそのままになっている。ブログに記しておきたい記事はゴルビーについてなど数件あるのだけど、少しでも書き始めておくことにするヨ。表題は孫子(まごこ)にも書き残しておきたい気持もあって、一石二鳥だからだネ(前にもそんなもの書き留めてブログ更新したことあるナ)。ちょうどTBSで広瀬すず主演で津田梅子のドラマをやっているから、それを見ながらネ。

 

 ハカセへのメールに記したのは学部生時代のことだったので、その辺の話からネ。

 ボクが入学したのは1968年(昭和43年)だけど、2ケ月も経たないうちに全学ストライキに突入したヨ。以前からもめていた医学部問題(略)で三派全学連の1つのブント(社学同)が安田講堂に侵入して重要書類を運び出したので、大学当局が機動隊(警察の暴力装置)を導入したために「大学の自治」を守れと訴えて学生が猛反発したのだネ。各クラスで討論が続き間もなく駒場(教養部)ではストライキに入り、やがて全学部(10ケのうちの1つは民青=日本共産党支持の学生組織も仕方なくスト参加)がストライキに突入した。

 授業がないのでやることもないと思っていた学生がほとんどだったと思うし、だから夏休みになると皆帰郷してしまったヨ。ボクは高校1年の頃から強烈な反抗期が続いて(家族の誰とも口をきいたこと無し)いたので帰郷せず、下宿にとどまってバリケード封鎖した建物に通っていたと思う。1年目はバイトもしてなかったしネ。駒場では第8本館が全共闘の根城で、クラスがもらった部屋は駒場共闘会議の代表だった最首悟助手(ブログに1度ならず書いたことがある)さんたちの部屋の隣りで、ドアにクラスの全共闘の名称である「けじらみ集団」と貼り紙してあった。そのため「けじらみ」の名は知られるようになったけど、クラスからのデモの動員数やその後に民青とのゲバルト(暴力)衝突での活躍で有名になり、最首さんから「けじらみ!」と呼ばれた時は嬉しかったネ。

 クラスの白ヘルメット(「敵」の民青は黄色)には全面に「全共闘」、両横には「43LⅢ」(43年度入学文科3類の意味)と記したけど、下宿のオバサンが骨折で長期入院したためにけじらみの巣窟のようになり、部屋にはいつもヘルメットが10個以上積んであったネ。この年のことはあまり詳しく覚えてないけど、生涯唯一の小説(定時制の文芸部設立記念のために書いたもの)である「イソップ新話」(退職記念に配布した)に書いたとおり、4人だったかで呑んで駒場の時計台に上り呑み会を続けたのはその冬だったかもネ。今でも付き合いが続いている古井が煙突の上(土で埋まっていた)からタチションしているのを、後から必死に押さえていたのは忘れない。(続く)