【読む】大井田義彰という人  『青銅』記念号掲載のイチローの文章

@ 先日大井田先生の最終講義の際にも売っていた『青銅』に掲載されたボクの文章をコピペしておくヨ。もう買うべき人は買っただろうから、公表してもイイだろうからネ。

     上州男の軽さとクソ真面目――大井田義彰という人

 

 大井田さんがもう定年退職とは、実感無いネ。まだまだしばらくは勤めているものと思っていたからネ。山田有策先生やボクが引き受けなかった(当局としてはやらせられないと警戒したのかもしれない、というのは冗談だけど)全国区の仕事や校長職からも逃げなかったし、ボクなら絶対に拒否した学系長(他大学なら学部長)も嫌がらずに引き受けて見事にこなしていたからエライ! 校長になったのは学大の卒業生(大学院は早稲田)としての義務を感じていたのかもしれないけど、言われてみれば「校長先生」のイメージに合う小太りな体形と優しい笑顔は、生まれながらの「校長」だったネ。

 学生時代は石井正己・黒石陽子両先生と同期であり、近代文学では東大大学院へ進学した宇佐美毅さんもいて、学大の全盛期のような時代だったンだネ。内田道雄山田有策両先生からの評価も高かったのは、お二人の昔話からも窺えた。だから内田先生の後任としてすぐに大井田さんが抜擢されたのは、ごく自然な流れだったのだと思う(宇佐美さんは既に中央大学に就職済みだったし)。専任として来てもらう前にも、非常勤で数回授業を担当していた実力者だった。しかしボクは赴任してからずっと学大のあまりの多忙さに振り回されていたので(宇都宮大学時代はのんびりテニスも楽しめた)、当時の大井田さんを認知する余裕を持てなかったので、当初は素っ気ない印象を持たれていたようで申し訳ないかぎりだった。

 

ともあれ学大に専任として来てもらう障害として心配だったのは、当時の大井田さんが麻布高校のベテラン教員だったことで、麻布は全国でも屈指の高給の学校だったからだ。それを十分知っていたので、山田先生とボクは断られるかもしれないと本気で覚悟していたヨ。だから幸い来てもらうことになった時は、心底ホッとしたものだ。

大井田さんを同僚として迎えてからは、山田先生とボクは教員としての仕事では大井田さんの活躍のお蔭で大いに楽ができたものだ。定時制高校という小規模校で七年勤めただけのボクとは異なり、麻布高校という大規模校で長年勤めた人なので、そのヴァイタリティと能力は人並みはずれていたから、ボク等は自然に手抜きができたものだ(ハッキリ書いちゃいけなかったかな?)。そういう大井田さんを見ながら振り返ってみると、近代文学専攻の三人の中で一番若かった頃のボクは、内田・山田両巨頭に楽をさせることなく十二分に働かせてしまったことを深く反省させられたネ。

働き者の大井田さんは、実のところボクと同じ上州男とは思えない生真面目さなので、意外な感を拭えないままだ。生まれも育ちも前橋だったボクの差別意識からすると、高崎近くの田舎出の大井田さんのマジメさは上州男の軽薄さの名誉に泥を塗るものなのだ。「上州名物、カカア天下と空っ風」というのは全国区のコトワザではないかもしれないけど、カカア天下とは取りも直さず男がダラシナイからだというのは上州人の常識なのだネ。祖父の代からの靴屋を継いだボクの親父も昼間から趣味のパチンコ屋に入りびたっているような人だったので、商家が年始に配る手ぬぐいの柄は毎年棚から下がるぶらぶら瓢箪だったネ。子供にも解る連想だったヨ。

そもそも国定忠治や大前田栄五郎などの(フィクションとしては木枯紋次郎も)ヤクザ者は上州の気風に合致するのだ。親父がよく同業者と花札で遊んでいる姿にボクが子供の頃から馴染んでいたのも、そうした気風からだと思う。男社会だけでなく、正月になると叔母の知り合いの家に行き、女子供が花札を楽しんでいたのも忘れない。新潟の山奥育ちの妻は、そういう気風に強い違和感を抱き続けているようだ。

すべて前橋旧市街の風習だったけど(利根川を挟んだ対岸の新前橋周辺は「川向う」いう差別用語で呼んでいた)、大井田さんの生まれ住んだ地域では、逆に花札で遊ぶ連中をヤクザ者として差別していたかもしれない。なにせ反安保闘争が盛んだった頃に、群馬県では反安保で提灯行列をしたというフツーじゃない土地柄なのだ。男がマジメ一方ではなく多少ともヤクザな面を持ち、家庭はカカアに任せっきりだというイメージが刷り込まれているボクからすると、大井田さんのような生真面目さは同じ上州人とも思えないのだネ。

 

ところが退職後だったか、大井田さんの名前の義彰は彰義隊に由来すると聞いてビックリしたものだ。大井田さんの先祖が、あの幕府が倒れる寸前に上野の森に立てこもり、最後のはかない抵抗をした律儀者の集団の家柄だったとは驚き以上に感動だネ! そういう話にすぐ感動してしまうのも上州男の軽さなのだけど、薩摩や長州の田舎者に江戸・関東は渡せねエ! と旧式な武装で近代的装備の新政府軍に潔く粉砕されたのも、上州気質(かたぎ)の美意識なのだ。生涯悪事を働くことが無さそうな大井田さんは、やはり「義」を貫く人だと保証できる。

そこまで想像すると、大井田さんは「大井田」さんというより「義彰」さんなのだと思うと、(先祖は京都の僧侶だったというボクの親父の怪しい話はともあれ)祖父の代からの商家の出であるボクなど、「義彰」さんにはとうてい頭が上がらない存在なのだった! でも教員時代は常にモテたボクに対抗意識を持っていた大井田さんは、一度「僕の方が若いのに何故?」とボヤいていたこともあったネ。そのわりにはボクの退職時の記念の文章では、「ジーパン姿で授業するセキヤさんはカッコ良かった」と記していたけど、実のところボクはジーパンで授業することは絶対なかったネ。授業のない日だけはラフな格好で大学にいたけどサ。ましてや他大学で授業をする際には、学大の名を背負っているので嫌いなスーツ姿で通ったものだヨ。

 

チョッと大井田さんをホメすぎたようなので、上州男的な軽薄な面も付しておきたい。小太りなのにモテると勘違いしていた軽さはともあれ、何でも安請け合いをするところもあって困ったこともあった。ボクは海外で教えに行くことなど絶対に拒絶していたので(退職寸前だったか5日間だけ北京に行っただけ)、インドやブラジルから近代文学専攻の教員の要請が来ても山田先生ともども拒否したところ、大井田さんは嫌がることもなく長期間行ってくれたのは実にありがたかった。

安請け合いというのは海外に教えに行ってくれたことではなく、行く前に大井田さんに教授昇任のために業績を増やしてくるように要望したら返事は良かったものの、二度とも「セキヤさん、暑くて論文どころではないですヨ」と言って済まされてしまったことだ。話を聞いてみるとインドの生活は、冷房しても論文を書こうという意欲などまったく湧いてこない土地柄だとのこと。そのわりには暑さでやせることもなく、小太りの体形のまま堂々たるご帰還だったけどネ。そんな調子だから、山田先生もボクも、大井田さんの国際交流に対する貢献をねぎらうしかなかったヨ(その後、昇任人事は無事果たせた)。

もう一つの軽さとして心配なのは、血圧やら心臓やらいろいろ健康ではない身体なのに、血圧の薬を水がわりにビールで飲んでしまうこと。何度か注意したものの、「ボクは良い人間なので何をやっても守られているのです」と言って忠告を聞こうともしない。この極めつけの楽天ぶりは、やはり上州男の軽薄さの表れというほかないようだ。確かに無茶な生活ぶりを続けていたけれど、何とか定年退職まで勤め上げたのだから「守られている」のかもしれない。それでも心配だからお願いしておくけど、

 

大井田さん、身体だけは大事にしてくれヨ!