【読む】牧野悠ほか著『中間小説とは何だったのか』

 在職中に千葉大教授・滝藤満義さんに頼まれて半年だけ学部の授業に通った時に、院生ながら参加して授業を手伝ってくれた牧野悠さん(帝京大学宇都宮キャンパス準教授)たちが著した『中間小説とは何だったのか』(文学通信、3200円〈税別〉)を落掌した。大衆小説が苦手なくらいだから「中間小説」も不得意でほとんど読んだことがないので、この際論文を読むことを通して勉強しようという気になったネ。目次を見たら松本清張はじめ遠藤周作吉行淳之介(「男と女の子」)などが並んでいるので、なるほど「中間」なのだナと教えられた気分。吉行は昔ずいぶん読んだけど(「男と女の子」は未読)清張と遠藤は学生・卒業生に合わせて読んだ程度で《純文学》としては認められないままでいるからネ。

 ましてや「チャンバラ中間小説」(生涯読まずに終りそう)が専門の牧野さんの論文はハードルが高すぎて読めないので、目次でなじみがありそうな高橋孝次氏の論を読み始めたしだい。《「純粋小説論」との分節化》という章から始まっているからだけど、これが意外と骨太で読み応えがあって勉強になる。冒頭からして「文学場」という用語が自然に使用されているので不審に思ったのは、愛読させてもらっている松本和也さんの論のキーワードとして使われているからだ。高橋氏の註によるとブルデューが使い始めた概念だそうで知らんかったネ(ヒッキー先生が授業で学生に教えているとは聞いていたけど、洋モノの中でも一段と読みにくそうだネ)。

 ともあれ横光利一「純粋小説論」に止まらず、平野謙の唱えた純文学変質論などとの「問題系の連続性」が深化されて論じられているので感心するばかり。院生時代に「純粋文学論」と織田作之助「可能性の文学」との連続性を考えようとしたことがあったけど、高橋論がこれにも言及していることを期待しつつ読んでいくヨ。「中間小説」は軽いイメージがするけど、この論文集は重厚で真摯な論考が集められたもの、おススメだヨ!