最後(7日)は芥川作品

明日は「人魚の嘆き」で谷崎は終り。
残りが2回あると聞いたので、別の作家として芥川を取り上げることにしたが、結局補講期間だというので1回のみと判明。
選んだのは「六の宮の姫君」という中途半端(?)な作品。プリント配布の予定。
その中途半端さを考えたい。

先述のメイが詫びに来たので少々驚き。
大方不貞腐れるのが最近の傾向だから。
学生に嫌われるのを恐れては教育はできない。
授業中に眠るのは他人に迷惑が掛からないはずだから欠席よりイイだろう、せっかく出席したのに・・・出なけりゃよかった!
とヘソを曲げるヤカラはオバカなジコチュウニンゲン。
出なけりゃ良かったのだ、他の意欲的な受講生のために。
ヤル気の無いヤカラが一緒に受講していること自体が邪魔なのだ。
<気>というのは大事で、出席者の気がシンクロすると授業(やゼミ)がすごく盛り上がるのは経験していると思う。
今年の文学史は大人数ながら、概してヤル気が伝わってきて気持イイ(難しいので眠り者も出るが)。
今の1・2年生にそれ程の違いを感じたことが無いから(昔はイヤな学年もあったが)、メイのような失敗は偶々気が緩んだ結果だと受け止めた。
謝罪に来たのがその証拠だと思う。
個人の問題ではなく、全体の傾向が現れたものではあるだろう。
でも一人の失敗が、そのゼミ・学年・大学全体等の問題として受け止められがちだから、「気」をつけて生きなければいかん(「気」違いかな?) 《キチガイ教員はいるけど≫。