【ゼミ部】ミチル姐さんの見解

 ミチル姐さんが感想と資料を送ってくれた。ブルトンとか澁澤龍彦など貴重な資料でもあるので、皆さんと共有させてもらおう。ミチル姐さんの言うとおり。確かに悦子は処女ではない可能性もあるものの、だとしたらトンデモナイ食わせもの女だネ。「僕」は完全に手玉に取られたということになるけど、だとしたらカワイソ過ぎるから、悦子はやはりフツーの処女のありがちな無自覚なコケットリー娘だとしておきたいネ。

 

さて、「ガラスの靴」。 
ブログにアップされた先生の悦子に関するご考察にほぼ同意いたします。 
「ファンム(ファム)・アンファン(femme enfant、子供としての女)」 
という語を質疑の際に挙げました。 
悦子の態度から、私がまず思い出したのが、澁澤龍彦の以下の文章でした。 
 
【以下引用】 
  ファンム・アンファンとは何か。アンドレ・ブルトンは『秘法十七』の 
なかに、次のように書いている。 
「ファンム・アンファンに感性の主権を返すのは誰だろうか。 
彼女自身にもまだ未知である彼女の反応のプロセス、ともすると 
急がしく気まぐれというヴェールに覆われがちな、彼女の意志の 
プロセスを明らかにするのは誰だろうか。それを明らかに 
するには、鏡の前で長いこと彼女を観察しなければならない。」 
「私がファンム・アンファンを選ぶのは、彼女を別の女に 
対立させるためではなく、彼女のうちに、ただ彼女のうちにのみ、 
もう一つの視覚のプリズムが絶対に透明な状態で宿っているように 
思われるからであり、この視覚のプリズムは全く別の規則に 
従っていて、男性の専制主義はこれをどうあっても暴露すべきでは 
ないと思うからである。」 
 どうやらブルトンにとって、ファンム・アンファンとは、 
自然の化身であり、透視力をもった一種の巫女であり、愛の奇蹟を 
実現する妖精であり……要するに、詩そのものなのである。 
【ここまで澁澤「ファンム・アンファンの楽園」より】 
 
悦子は「彼女自身にもまだ未知である彼女の反応のプロセス」に 
従って〈越境〉しただけだと思います。 
もし「僕」があのまま事を進めても、悦子はその通りに受け入れた 
でしょうし、何なら事があったとしても同じように髪を整えて 
「何も知らない笑顔で」「送ってくれる?」と尋ねかねないだろうし、 
さらに何なら新たな謎の行動で「僕」を惑わせるかもしれません。 
この「未知」は、先生のおっしゃる「無意識」に近いかと思います。 
 
ちなみに上記の引用は、澁澤がハンス・ベルメール描く少女たちを解説した 
文章の一節です。(人形作家ベルメール。「毀れた人形みたい」な悦子。) 
男性の勝手な欲望が、女性を「巫女」に仕立て上げているとは言えるし、 
ブルトンの物言いは断然男性からの視線でしょうが、この作品自体 
「僕」という男性からの視線しか読み取れないのだし、 
どっちみち悦子にも自覚できない「意志」で事態は動いている(ように 
描かれている)と思いました。 
(悦子が処女か非処女かはあまり関係がないかもしれません。 
挑発的な自分に無自覚であることがキモなので。) 
要するに、「僕」は悦子をミューズにし損ねた男であるということです。 
 
悦子の「意志」をめぐってあんなに議論が沸くというのは、 
こんにち的なことなのでしょうかね。 

 


 
 
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