【見る】「知恵泉」  緒方貞子  鈴木秀子  上川陽子

 「知恵泉」で緒方貞子を取り上げているという情報を流そうと考えていながら、いま再放送が流れているまで忘れていたのも老化ボケで情けないかぎり。先般国会議員で最低能を三原じゅん子と争う麻生太郎が、上川陽子外相をオバサン呼ばわりしながら容貌にケチをつけたけど、上川外相は麻生とは100%反対の能力の持ち主で史上日本が誇る女性であることは確かなようだ。近年日本が誇れる女性は国連難民高等弁務官として活躍した緒方貞子の名が上がるだろうけど、軍部に反対して5・15事件で殺された犬養毅のひ孫だということは番組で紹介されるまでは忘れていたネ。

 それはともかく緒方氏は聖心女子大の学生だった頃は、日本女子テニス界有数の選手として活躍したとは初耳ながら驚いたネ(緒方氏の顔のシミはその頃の日焼の跡かも)。もっと驚いたのは、女子学の後輩であり後に近代文学担当の教員になった鈴木秀子さん(龍之介研究者)が突然外面に現れた時だネ。ボクは三好行雄師の後を受けて聖心女子大の大学院の非常勤講師を数年務めたので、鈴木さんとは馴染みだったので(現在東大教養学部の教員である品田悦一さんも当時聖心女子大にいた、ちなみに前橋高校の後輩)数年前までは鈴木さんとはずっと年賀状のやり取りが続いていたからネ。

 それが想定をはるかに超えてお元気そうなので驚いたたことを、当時ボクの授業に出ていた院修了生に伝えておきたいネ。今回は2回連続特集の前半で、来週の後半には残念ながら鈴木さんの出番は無さそうだけどサ。

 でも上川陽子さんに総理大臣としての出番があれば、自民党も日本の政治も少しは明るく清潔になるかもしれないネ。

【見る】「100分で名著」続き  朱喜哲(チュ・ヒチョル)  プラグマティズムが軽視された日本の哲学史

 テキストを買ってきたヨ、ローティはほとんど知らないし目次を見ても聞きなれないことが多いのでネ。解説者は朱喜哲(チュ・ヒチョル)という人で、専門はプラグマティズム言語哲学とその思想史ということだそうなので、ボクが理解しにくい理由が分かった気がしたネ。ボクのみならず、日本では(少なくともボク等の世代までは)プラグマティズムは流行ることもなくむしろ侮蔑の対象にもされていて、受け入れられることがなかったのだネ。

 チュさんは長いこと評価されることがなかったこのプラグマティズムを再評価しつつ、日本の思想史の流れを転倒しようという意欲に満ちあふれているのが番組にも現れているのだネ。チュさんが番組でも「哲学」という言葉をくり返して強調しているのも、日本でプラグマティズムが軽視され続けていたからなのだろナ。不要とも思われるほど「哲学」と言うのも、プラグマティズムなど「哲学」ではないと決めつけられてきた歴史から生じたコンプレックス(劣等感というより原義どおりの複雑な感情)の現れなのだろナ。

 番組で解説された第3回を一読してみたけれど、肝心なところが理解しにくいのはやはりボクがプラグマティズムとは無縁のまま生きていたからだろネ。これを機縁に少しでも理解したいと思うので、時間をかけてチャレンジしてみるヨ。

【見る】「100分 de 名著」  ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」  ルワンダ内戦(・ボスニア内戦)

 放っておいても少なからぬ人が見る番組になっていると思うけれど、今回はボクがうっかりしていて昨夜やっと第3回(?)の再放送を見たらけっこう面白いかった。ローティと言われても聞いたことがあるか程度だったけど、昨夜はルワンダ内戦(少数派のツチ族が多数派のフツ族によって50~100万人が虐殺されたと言われる)が両族を差異化する「言葉」に起因するという理解(ローティとは別人のティレルの分析)を示していたのが初耳で興味を持った。関東大震災時に朝鮮人虐殺がなされた時と同様で、普通の日本人がデマ(言葉)に乗せられて朝鮮人虐殺を行ったのも想起されたしネ。日本では杉田水脈はじめ未だに虐殺という事実を認めたがらないクソがいるように、ルワンダでは表面的には両族が和解しているものの人々には深い傷が残ったままだという特集番組をむかし見たことがある。

 何と日本人の活動家(?)が両族の和解に努力していたけど(番組当時のブログにも記した)、夫を殺されたツチ族女性の家事労働を隣りに住むフツ族の男性が手伝おうとはしていたものの、女性の側では(その男性が直接殺したわけではないながら)決して許していないことをハッキリ言葉にしていたのを忘れない。

 番組の解説では元々明確ではない民族差ながらも、外側からツチ・フツという「言葉」で差異化したのがそもそもの対立を生じさせたという。解説者の「哲学者」の発音がこれ以上ありえないほどの早口ながらも明確なのに驚いたものの、それが押しつけがましく響くので印象が悪かったせいもあったか、「そんな簡単な問題じゃないだろ?」と思ったのは確か。結論ありきの調子で疑問をはさませない早口で知識を伝えるのは、「哲学者」のイメージに反してうさん臭いネ。

 でもルワンダボスニアの内戦が取り上げられていたので、本屋でテキストを確認して読む価値がありそうなら買って来よう。チョッと前の芥川賞受賞作・高瀬準子「おいしいごはんが食べられますように」が面白そうなので(受賞の年の候補者全員が女性だったというのでNHKが取り上げた番組で知った)、それもゲットして来よう。

【読む】関谷由美子『少女たちの〈居場所〉——資本の他者として』がスゴイ!

 「関谷」といっても吾が親族ではない、近代文学研究とは無縁な人が勘違いしないように先に記しておくヨ。お名前は知っていてもナマの由美子さんに会えたのはだいぶ経ってからだネ、山田先生が一緒だったから学大に赴任してからのようだナ。低能・麻生太郎の逆で行けば想定外の美形だったので驚いたくらい(逆を行っても非難されるようだけど)。ご主人の漱石研究者は知っていたけど、由美子さんからだいぶ後になって漱石論を贈っていただいたのが、

 『〈磁場〉の漱石——時計はいつも狂っている』(翰林書房、2013年)

で表題が表すように他の漱石論とは一線を画したオリジナルな論考。だからつい最近まで仕事机のある部屋の書棚に並んでいたものだ(漱石論はほとんどがロフトに仕舞ったまま)。さすが「関谷」一族だけあってレベルの高い研究者だネ(笑)。

 

 それが近著は『少女たちの〈居場所〉~』(鳥影社、2023・12)という表題で仮名垣魯文・紅葉・藤村・田村俊子漱石・秋声・林芙美子というのが主要なラインアップで、「少女」がテーマだと言われるとボクの手に余るナというのが正直な第一印象。さらに小説論だけが偏重される(というより小説論しかできない)研究界にあって演劇論もそろっていて、ボクの好きな三好十郎やつかこうへいに井上ひさしまで論じてしまう守備範囲の広さ、さらに全15章の他に「補遺」としてドラマ「冬のソナタ」まで論じる柔軟さまで具えているのだから「参りました!」と言うほかない。

 恥をさらせば第九章の高群逸枝は名前は知っていたけど、第四章の北田薄氷などは名前も聞いたことがなかったネ。第一章の魯文「高橋阿伝夜叉譚」の作品は未読ながら数種類の論は知っていたものの、「序にかえて」で《同時代の旧弊な悪女ものとは一線を画す、理想の女性像を作り上げている。(略)魯文が阿伝というこの新しい女性像を、明治開花期の祝祭空間のクイーンとして語ったことの意味を考察している。》などと言われると、まさかの論じ方に圧倒される思いだったネ。

 実はこの「序にかえて」は、テーマが「少女」というボクには高いハードルからして取っ付きにくくて読むのに苦労し、3度目のチャレンジでやっと読み通すことができたほどだ。通読できた時に改めて本書のスゴさを実感でき、まだ早いけど今年一番の研究書かもしれない(やまなし文学賞の第一候補)とまで考えたネ。もちろん各論を読んでその内実を検証しなければならないのだけど、ボクの守備範囲や趣味からして(例えば藤村嫌い)すぐに読もうという気にはなれない。

 『シドクⅡ』の「近代能楽集」(三島由紀夫)論でコク(告白)ったように若い頃につかこうへいや野田秀樹のオッカケだったボクでも、論じられている「飛龍伝」は(舞台を観て?)ツマラナイ印象しか残っていない。でも由美子さんの論はきっと面白いのだろナ(三好十郎の全集は持っているけど、論じられている長い名前の作品は入ってるのかな?)。

 こんなに充実している著書なのに定価が3200円(+税)というのも驚きの安さだネ(500ページ近いのに)。それにしても鳥影社というのはフシギな出版社だネ。昔から注目している小池昌代があれば『笙野頼子発禁小説集』というのもありながら、小川国生論とか中上健次論も出している。フシギの極みはふた昔も前の指揮者であるジョージ・セルオットー・クレンペラーについての伝記もあるので、誰が買って読むのかイメージしにくい。昔セル指揮クリーブランド管弦楽団の演奏によるシューマンの第1・3交響曲のレコードを期待して買ったものの、3番の「ライン」がドブ川が詰まったような演奏だったのですぐに従弟に上げてしまったのを忘れない。

 ただし、由美子さんの本書が爆売れしてもフシギではない!

【読む】司馬遼太郎のロシア観はプーチンに重なる?  ナワリヌイ殺しのプーチンはスターリンに重なる

 成田龍一の司馬遼論の一節。

 《ロシアについては、「市民社会」を持たず、皇帝の専制主義・侵略主義がみられ、「白人でありながらおよそヨーロッパ的でないロシア的現実」を指摘し、(略)開明派んのウィッテと日本を蔑視するニコライⅡ世を取り上げ、「帝国主義後進国」の分だけ「侵略熱はすさまじくなる」とも述べた。》

 まるで独裁者プーチンウクライナ侵略と、ロシアを歴史上始めて民主化しようと試みたゴルバチョフとの対比を聞いているような思いだ。社会主義体制から民主制へのソフトランディングを構想したゴルビーのロシア民主化は、あまりに急進的なエリツィンたちの欲望資本主義志向によって挫折させられ、欲望(汚職)に取りつかれた弱点をプーチンに握られて追われたエリツィンたちが今日のロシアの「専制主義・侵略主義」をもたらしたと言えよう。ゴルビーの努力が実らなかったのは、ロシアが歴史的に「市民社会」が定着され得ないことを示しているようで、それは他ならぬプーチンの認識に重なるので気持が暗くなるばかりではある。

 ロシアに「市民社会」が根付くのを期待しながらも果たせないまま、プーチンの「専制主義・侵略主義」に耐えきれぬ人々(何百万人?)は国外に脱出せざるをえないのが現状だ。晩年のゴルビーが、テレビにロシアの映像が映される背景で流される歌詞に「自由」を聞きとがめて、「自由? 誰がそれをもたらしたのだ?」と皮肉たっぷりにつぶやいていたけれど、「市民社会」とともに真の「自由」はロシアでは永久に確立されえないとすれば、ますます気鬱になるばかりだヨ。

 そんな時によりによってプーチンがまたナワリヌイを殺したというニュースが飛び込んできて、スターリンの粛清がくり返されているロシアの現況では、「市民社会」も「自由」も絶望的だと認めざるをえない・・・ガザも想起されつつ無力感ばかり。

【読む】成田龍一の司馬遼太郎論  《時代小説》と《歴史小説》

 以前、国分寺に行くたびに寄る古書店「七七舎」の100円コーナーでゲットした、

 成田龍一『戦後思想家としての司馬遼太郎』(筑摩書房、2800円)

を読んでいるのだけどメチャ面白い! さすがに文学にも理解力のある成田龍一さんの著書だネ。学部生時代からの友人が自分の本を(司馬遼に関心が無かった)ボクに貸してまで読ませてくれた「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」の2冊を論じている箇所を読んだのだけど、《時代小説》(竜馬~)から《歴史小説》(坂の上~)への転換という分析は鮮やかで刺激的だ。いわゆる《時代小説》をほとんど読んだことがないボクでも、成田論は分かりやすくて納得できる。「坂の上の雲」を読んだ時、司馬が明治という日本近代の《歴史》を語ろうとしているのがよく伝わってきたネ。「竜馬がゆく」では竜馬はじめ海舟などの人物の魅力を語ろうとしていたものの、人物たちを動かしている時代=《歴史》を描こうという意図は弱かったからネ。成田論をベースにすると、龍之介は《時代小説》止まりで鴎外は《歴史小説》にチャレンジした、という違いも改めて分かったネ。

 ともあれ成田さんのお蔭で司馬遼の「一粒で二度おいしい!」面白さが分かった気になっている。ずいぶん前に西南戦争を語った「翔ぶが如く」全5巻をそろえたものの未読のまま放置してあるのを、改めて読んでみようという気にもなっている。

 成田本をボクに司馬遼を読ませた友人に勧めたところ、アマゾンで4000円弱で出ていたそうだ。そのくらいの価値はあるだろうけど、皆さん古書店でこの本が安く出ていたらお買い得だヨ! それにしても七七舎の100円コーナーは画集はじめ掘り出し物がたくさん並んでいるので、学大や行きつけの病院に行くために国分寺へ行く時には寄らずにはいられないヨ。

【釣り部】24・25日に外房へ

 次回の釣り部の確認。

2月24・25日に外房へ

鵜原の「きろく」に宿泊して、御宿などを攻める予定。

イヤラシ君が仕事で参加できなくなったので、総勢6名で楽しんでくるヨ。

今からでもダイジョブだから、参加希望があれば連絡ください。