【読む】司馬遼太郎のロシア観はプーチンに重なる?  ナワリヌイ殺しのプーチンはスターリンに重なる

 成田龍一の司馬遼論の一節。

 《ロシアについては、「市民社会」を持たず、皇帝の専制主義・侵略主義がみられ、「白人でありながらおよそヨーロッパ的でないロシア的現実」を指摘し、(略)開明派んのウィッテと日本を蔑視するニコライⅡ世を取り上げ、「帝国主義後進国」の分だけ「侵略熱はすさまじくなる」とも述べた。》

 まるで独裁者プーチンウクライナ侵略と、ロシアを歴史上始めて民主化しようと試みたゴルバチョフとの対比を聞いているような思いだ。社会主義体制から民主制へのソフトランディングを構想したゴルビーのロシア民主化は、あまりに急進的なエリツィンたちの欲望資本主義志向によって挫折させられ、欲望(汚職)に取りつかれた弱点をプーチンに握られて追われたエリツィンたちが今日のロシアの「専制主義・侵略主義」をもたらしたと言えよう。ゴルビーの努力が実らなかったのは、ロシアが歴史的に「市民社会」が定着され得ないことを示しているようで、それは他ならぬプーチンの認識に重なるので気持が暗くなるばかりではある。

 ロシアに「市民社会」が根付くのを期待しながらも果たせないまま、プーチンの「専制主義・侵略主義」に耐えきれぬ人々(何百万人?)は国外に脱出せざるをえないのが現状だ。晩年のゴルビーが、テレビにロシアの映像が映される背景で流される歌詞に「自由」を聞きとがめて、「自由? 誰がそれをもたらしたのだ?」と皮肉たっぷりにつぶやいていたけれど、「市民社会」とともに真の「自由」はロシアでは永久に確立されえないとすれば、ますます気鬱になるばかりだヨ。

 そんな時によりによってプーチンがまたナワリヌイを殺したというニュースが飛び込んできて、スターリンの粛清がくり返されているロシアの現況では、「市民社会」も「自由」も絶望的だと認めざるをえない・・・ガザも想起されつつ無力感ばかり。