「十三夜」でも議論ができたヨ! (レジュメは25部だヨ)

一葉は漱石や芥川同様で、問題は先行研究で言い尽くされている感じなので、「十三夜」をやりたいと言われた時は歓迎できなかった。
先週までの盛り上がりは期待できないものとあきらめ顔で臨んだのだけれど、実力のあるレポが二人ともそれなりの読みを用意してきたので、叩かれながらも盛んな議論が展開されて楽しかった。
<主体性>対<従順>という二項対立で読もうとしたイズミンの意欲と能力は、学部2年生とは思えないスケールの大きさで圧倒される思いだったが、議論に入ると少々腰が引けすぎていて歯がゆかった。
「テクストにはないのでハッキリ言えないけど〜」という言い方を繰り返していたけれど、そもそも<読み>とはテクストに書かれてないところまで解釈することだから、あれだけ明確な<読み>を提出していながら「ハッキリしたことは分からない」というような逃げ腰になることはない。
レジュメで特に説得されたのは、阿関(おせき)が子供を置いて出てきたのは実家の親に離婚を認めてもらえないことを自覚していたからで、だからこそ離婚表示の手紙も伝言も残さずに実家に向かったのだという読み方だった。
逆にまったく説得されなかったのはレジュメ末尾の辺りで、阿関が禄之助の車に乗らずに歩いて行くのは、彼女の中で完全には<主体性>が絶えてない証拠だという読み方だった。
そもそも阿関(を始め当時の女性)には<主体性>など持ちえようがないのであり、したがってレジュメに引用されていた狩野啓子という人が論じるような、原田は「恋愛を結婚に直結させる少数派の思想」の持ち主だという理解はオバカと言うほかない。
授業中にも強調したけれど、活字になっていると偉く見えてしまうようだがオバカな論文・研究者が溢れているから、引きずられないような注意が必要。
原田は社会的には開明的な「思想」を持っているかもしれないが、家庭的には極めて封建的な考え方に閉ざされているので、そんな男が阿関を「恋愛」対象に選んだはずもなく、自由にできる女を拾ってきて妻に据えただけの話。
飽きれば、或いは社会的交際上使い物にならないような無教育な女なら、いつでも交換しようとするだけである。
子供ができていれば乳母として残しておくのも好都合、というくらいにしか考えていない。

テクストの上・下段の「断絶」を読んだ小川譲も挑発的な読みを出し得ていたので、イズミンが5時限の授業に行った後も長いことイジメられながら闘っていた。
一つ視野に置いて欲しいのは、語りは騙りでもあって、禄之助の語りをそのまま鵜呑みにするのは危険だということ。
阿関が結婚してしまった当座はともかく、禄之助は失敗をすべて阿関の結婚のせいにして自分を慰撫・正当化し続けていたのであり、阿関に会えばアテツケガマシイ自己劇化をして語る心理が働くのも当然、という観点を保持しなくてはいけないということ。
それにしては登場した当座からの脱力ぶりが、ロシア文学のニヒリストを想起されている点が日本文学離れして感じられて不思議だった。
一葉は耳学問でルージンやラスコーリニコフ(やオブローモフ)を知っていたのかな?