漱石「倫敦塔」  予習とテキスト持参が聴講条件

受講申告票を出してないが聴講していいか? という質問が複数寄せられたが、むしろそれを勧めてきたので拍子抜けの思い。
せっかく同じ科目で大井田先生と2種類の授業をしているのだから、そして半年で近代文学史をやれという無茶なカリキュラム(昔は1年かけて講義した)なのだから、異なる内容の講義を両方聴いて専門学校並みのカリキュラムの薄っぺらさを補うように勧めている次第。
昔はその旨の説明すれば少なからぬ学生が両方を聴いていたものだが、最近はそういう意欲のある学生があまり見当たらなくなって、国語科の学生(新入生)にも未練なく退職できそう。
上級生(時には院生)までもが聴きにくる一方で、下級生になるほど意欲が感じられなくなって、まるで別の大学にいるような思い。
ともあれ単位に関係なく聴講に来る人こそ大歓迎! 
夏休みの免許更新講習に参加していた現職の方も、木曜は空いているというので4時限目の演習ともども聴講に来ている。
この数年、院授業を中心にいくつもの授業に参加しているベテランの元教員の近藤さんも、聴きに来る模様。
教員志望の学生は、将来そういう先人達を見習って学習・研究を持続しながら、自身の授業に生かして欲しいもの。
停滞気味の教員の授業・教育ほどツマラナイ・無意味なものは無い!
なにも小中高に限った話ではない、大学の教員こそ日々新たでいなければならないだろう。
文学史の授業は殊に毎年内容を変えているのも、自らに停滞を禁じるためなのだが、単位さえ取れればいいという学生には迷惑な話しなのかもしれない。

単に文学史の知識を得ようというなら、その手の本を読めば済むとも言えるので、手薄なカリキュラムを補う意味でも授業で作品(今年は小説)を読むことにしている。
だから指定された作品は必ず熟読した上で、必ずテキスト持参で参加することが一大原則。
そもそも手ぶらで(頭の中も空っぽで)授業に参加して済むと考えるようなら、学生を辞めた方がいい。
テキストは岩波文庫なので(『日本近代短篇小説選 明治篇2』)部数限定で生協に用意してもらってあるが、売り切れていたら自分で注文しておくこと。
次回(11月7日)まで入手できなければ、図書館や研究室の本から「倫敦塔」のコピーを用意すること。

さて前回は「倫敦塔」を読む準備として、漱石「『文学論』序」のプリントを読みながら漱石の文学的履歴を説明した。
その際に「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」が掲載された『ホトトギス』についても話しておいたのは、次回に<写生文>の講義をするためなので「坊っちゃん」は全部・「猫」は一部でも読んでおくと良い。
次回の授業まで時間があるから、寺田寅彦「団栗」と大塚楠緒子「上下」も読んでおくとさらに良い。
共に漱石とその文学に関連するから。