【読む】「七七舎」が別の古書店に変った  浅田彰  ピナ・バウシュ  「春の祭典」(ストラビンスキー)  ベジャール  石橋蓮司と緑魔子

 先週いつもの病院に行った帰り、長年利用していた七七舎が別の古書店になっていたので驚いたヨ。100円コーナーはほぼそのままだったけど(長塚節「土」をゲット)店内がだいぶ模様替えされていたネ。小林秀雄・生誕百年記念展のカタログのような本で『小林秀雄 美を求める心』(新潮社、2002・10)というのと、浅田彰の対談・鼎談集『20世紀文化の臨界』(青土社、2000年)というのをゲットしたヨ。前者は小林が持っていた・あるいは惹かれた絵画や骨董の写真と小林作品からの短い引用が並べられているので、とても便利。

 後者は浅田彰バタイユコクトージャン・ジュネ、ピンチョン、ピナ・バウシュなど10名の小説家・哲学者・音楽家について、その道の専門家と共に論じている興味深い本。個人的にはピナ・バウシュについて浅田が渡邊守章演劇評論家・教養課程の仏語の教員だった)と石光泰夫(未知)と議論している章に興味があって、早速最初のところだけ読んでみた。ピナ・バウシュ舞台芸術家で主催する舞踊団を率いて3回は来日しているけれど、その中で有名な(?)「カフェ・ミュラー」をテレビで放映しているのを見たことは覚えている。誰でも最初はそう思うだろう「何じゃ、こりゃ?」という感じだったネ。

 浅田やモリアキ先生なら説明してくれると期待したものの、語られているのはボクの印象と大同小異だったので笑えたネ。でもさすがと思える発言もあって面白い。

《(渡邊)『春の祭典』は別の面白さがあって、言うまでもなくモーリス・ベジャールの『春の祭典』というのが存在してしまって以来、それ以後の『春の祭典』はもうどうにもならない(略)そういう地平で、ああいうふうに舞台に土を盛って、裸足で、半裸のあまり見端(みば)の良くない男女が(略)泥まみれ土まみれになって演る(略)》

 ボクはベジャールが来日してストラビンスキーの3部作を公演した時に観たけど、中でも『春の祭典』は音楽もスゴイけどベジャールの振り付けがまた極め付きで感動したネ。ベジャールといってもピンとこない人がいるだろうけど、超有名な『ボレロ』に振り付けをした人だと言えば分かると思う。『春の祭典』は画期的な音楽で新時代の到来を音楽史に刻んだけれど(聴いたことない人は絶対1度は経験すべきだネ!)、ベジャールの振り付けもモリアキ先生の言うとおりで「それ以後」の可能性を狭めたネ。

 泥(砂)を舞台に敷いて演じるというのは、新聞の演劇時評で〇〇(有名な国際的演出家、名前を思い出したら記す)が「カルメン」が試みたという記事を読んだことがあるし、院生の頃だったか石橋蓮司緑魔子(当時夫妻?)が「第七病棟」という演目(劇団の名前だったか?)で砂交じりになって熱演していたのをナマで見たのを覚えている。ピナもこの手を使ったということのようだけど、砂(泥)を舞台に敷くというのはありがちな発想のようだネ。それにしても昔は前衛的な演劇にもチャレンジしていた石橋蓮司が、今や茶の間のテレビ俳優として活躍しているのだからオモシロい(緑魔子は生きているのかな?)。