【ゼミ部】参考資料

 レポの西村クンから純粋詩に関わる資料が送られてきました。

 

講演に先立つ部分は、(講演も理解したとは言い難いのですが)私も理解できないところも多く、論に落とし込める気がしません……。

純粋詩については、当日配布予定の発表資料に乗せる、文学辞典の定義を予めお送りしておきます。

(poesieのeのアクサンは文字化けするので外してあります)

 

 

『フランス文学小辞典』(白水社、2007、130ページ)

ポー・ボードレールマラルメの流れを汲むヴァレリーが目標として掲げた詩の概念。ヴァレリーはその創作の努力そのものも純粋詩とみなした。1920年に友人の詩集に寄せた序文で言及され、絶対詩とも称される。その詩論は、「詩人の手帖」(1928)にまとめられた。純粋詩とは、散文で表しえるような詩的ではない要素が排除され、詩人を超越し絶え間なく感動を生み出す意味作用となる。その概念は、後にヌーヴェル・クリティックに継承される。一方、アンリ・ブレモンが1925年にアカデミー・フランセーズの公開会議で自らの純粋詩論を展開した。ヴァレリー純粋詩の詩人としながら、神父ブレモンは純粋詩形而上学的存在(神)への媒介とみなす。これにチボーデが反論し、1925年から30年にかけて純粋詩論争が起こった。

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『世界文学辞典』 (集英社、2002、747ページ)

物語・雄弁・思想など、詩以外のいっさいの要素から隔離され、純粋に詩的な要素だけからつくられた詩。このような詩観は、エドガー・アラン・ポーによって「詩以外の何物でもない詩、ひたすら詩のために書かれた詩」(『詩の原理』、1850)という表現で予言され、ボードレール以来の象徴派の詩人たちに探求されてきた。とりわけマラルメは『詩の危機』(1897)の中で、詩的状態の言語を、伝達の手段としての通常の状態の言語と峻別し、詩においては語と語の結び付きが生み出す音楽的効果から物の純粋な理念が立ちのぼってこなければならないと説いた。この見解はヴァレリーに受け継がれ、1920年、リュシヤン・ファーブルの詩集『女神を識る』のために書かれた序文の中で、〈純粋詩〉という言葉で展開され、さらに主知主義の立場から〈絶対詩〉poesie absolueという表現に置き換えられていく。それに対してアンリ・ブレモン師は、25年10月、アカデミー・フランセーズにおける『純粋詩』(1926)と題する講演で、詩にあっては、言語はあらゆる知的内容を取り除かれて、「ある種の振動を我々の内に通過させる」ためにのみ用いられなければならないと主張し、詩の音楽性や暗示的側面を主張した。ブレモンの講演は純粋詩主知主義の関わりについてチボーデの反論にあい、〈純粋詩論争〉を引き起こすことになる。ヴァレリーはこの論争には間接的にしか関わらなかったが、いずれにせよ、ヴァレリーもブレモンも純粋詩が現実には到達不可能な目標への接近の試みであることを認める点では一致している。