発表者の西村クンに入校証を送るのを忘れていたけれど、彼が守衛さんに入校を止められていた直後にボクが大学に着いたので無事に通過できたヨ。今後ナマ参加する人は、入校証を持参することをお忘れなく!(ボクに連絡すればメール添付で送ります)
発表者の西村クンが感染を心配していたので、ヒッキ―先生が会場を演習室に設定してくれたので、ナマ参加者4名が十分な距離をおいてゼミができたヨ(アフターの呑み部も中止した)。いつも司会してくれるエトワル君は急に授業が入り不参加、マチルダさんは濃厚接触者とかいうのになって自宅謹慎の模様で、それを知ると種々自粛した方が身のためのようだネ。ボク個人としても、前夜独りでワインと焼酎を痛飲したので呑みたい気にならなかったけど、帰宅したら出歩きジャミラが寿司(2000円近いのが半額セール!)を買ってきてあったので、日にちが変る頃に独りビールで食したヨ。呑み部の代わりのように、ナマ参加したマギー大國に九州土産(?)の焼酎をくれたヨ。自家にあった北村透谷関係の本を全部上げた礼なのかな、「お前はもう死んでいる!」という名前が気になったけど、「北斗の拳」とも記してあるので漫画から命名されているのだということは、オリックスの4番打者・杉元のお蔭で理解している。
テーマの純粋詩論は、学生時代からワケの分からん問題という印象を引きずっていたけれど、西村クンが指定したテキストのうちのヴァレリーは、これも学生時代から読んでも理解しにくいものという記憶のままだった。自家に古書店で買ったヴァレリー全集(人文書院)の『ヴァリエテ』2冊があって開いたこともなかったので、佐藤正彰訳で「一詩人の手帖」を読み始めたもののワケが分からないのは学生時代のままだった。肌が合わないので読みにくい・理解しにくいと言えば、ヴァレリーがその代表だいう偏見を抱いているけど、後で西村クンに言われたのは分かりやすい翻訳を選んで、テキストには松田浩典訳(平凡社)を送ってくれたとのこと。松田訳を見れば確かに分かりやすい日本語になっているようだ。翻訳は訳者で選べということを痛感したネ。送ってくれたブレモンの方は窪田般彌訳だったけど、こちらはヴァレリーと比べるまでもなく分かりやすかった。
佐藤正彰訳は難解だったけど、ヴァレリーとブレモンとの差異を説いた西村クンの発表は理解しやすかったと思う。初のオンライン参加だったツクホーシが、発表に見合った質問をしてくれたのを機に議論が盛り上がっていった。しかし発表の後半で「純粋」という概念が文学から他の芸術・哲学に広がり始めてからは(構成主義やら純粋持続やら)、ものスゴク刺激的で面白かったけれど着地点が分からない発表となった。【と言っても伝わりにくいと思うので、ヴァレリーの主張を「純粋」と「不純」という対概念だとして、両極を強引に〈理知〉対〈情感〉と置き換えれば、】以前純粋詩の研究も手がけたことがあるというヒッキ―先生が、日本の文学史の展開や世界の文学の潮流の中に「純粋(詩)」を補足してくれたので助かったネ。ヒッキ―先生によれば、ジョイス等の「意識の流れ」も「純粋」追求の結果だというのも驚きつつも納得できたり、杉本クン(法政大院)の補足ではコルビジェの建築も「純粋」の流れの中に位置づけられるというのだから(探偵小説の話は無知なボクには理解できなかったけど)、西村クンの発表はとんでもない広がりを持ったものだとビックリ仰天面白かったネ。
細かい話になるけど、個人的な関心で宮沢賢治の専門家であるバンセイ君(構大樹)に純粋詩の流れと賢治との関連を訊いたら、ボクのイメージと真逆で詩集『春と修羅』は「純粋」の側の創作だということだった。賢治に馴染みのないボクとしては不十分ながらも納得するところがあったネ。賢治を発掘したのが高村光太郎や草野心平であるので一見逆の印象ではあるけれど、光太郎の詩集『道程』の知性や心平の詩集『第四階級』の斬新な表現を想起すれば、バンセイ君の把握が理解できた気がしたネ。
長くなったけど、キリがないのでたくさんの感想を残しながら打ち切りたい。参加しなかった人がカワイソーに思えるほど、楽しく充実したゼミだった。