【テクストの読み】「山月記」をめぐって〈メイ(vs)イチロー〉その2

〈メイより〉

群馬はヤクザの本場!とは知らなかったです。

強そうですねえ。たしかに、群馬のヤンキーは強いらしいですね。

先生も高校時代は…笑笑

 

はい、山月記

文学談義?は楽しいですね^_^

山月記は、先生のおっしゃるとおり、詩というシニフィアンは溢れているのですが、シニフィエが無いように思います。田口律男先生風にいうと、シニフィエなきシニフィアンの戯れ、というところでしょうか笑笑

 

李徴の主観が吐露されるところと、冒頭ぐらいしか、詩についての描写がないのですが、李徴は虎になってまで詩を忘れられない、詩が彼のアイデンティティというより、

後世に伝えないと死んでも死に切れないだの、長安風流人士に認められたいだの、詩が忘れられないのではなく、虎になってもまだ名前を遺したいという名誉欲を忘れられないのだと思います。

 

テクストを読むときに、書かれたものはもちろんのことですが、書かれなかったものにも何か大事なヒントが隠されてるように思います。書かれなかったのは、李徴にとっての詩とはなにか、なぜ李徴は詩に執着したのかというもので、そのかわりに出てくるのが、名誉欲です。

 

詩そのものにすべてを賭けたアーティストというよりも、唐という天才詩人がうじゃうじゃいる時代に、詩業で名をなすことにすべてを賭けたのが李徴だと思います。そして、あとは、プライドを抑えて師につき仲間と切磋琢磨すればよかった、とか、グダグダした後悔を述べていますが、そんな当たり前の努力でアーティストとして大成できると思っているのが、李徴なのだと思いました。

努力と人付き合いで一流の詩人になれるというわけでもないのに。

 

あっ。乗り換えです。またメールしますね!

 めい

 

イチローから〉(メイからその後の付論がないまま)

昔に変わらずなかなかガンバリおるナ、さすがはメイらしい。

それにしても「シニフィアンの氾濫」という言い方は田口さんじゃなくて千田ヨーコ―(洋幸)の言い方じゃないか?(田口さんも使っているのかもしれないけど)。電車の中なら確認しようがないかもしれないけど、ボクが言う「詩」という表記(シニフィアン)の氾濫はテクストに明らか。それは理解されていると思っていたけど、伝わってないようなので、以下にテクストの流れのままに拾ってみる。メイの想定(記憶)を遥かに超えて「詩」が氾濫していることがハッキリするだろう。

 

《ひたすら詩作に耽った。》

《詩家としても名を死後百年に遺そうとしたのである。》

《己の詩業に半ば絶望したためでもある。》

《自分は元来詩人として名を成す積りでいた。》

《曾て作るところの詩数百篇、》

《己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。》

《今の懐を即席に詩に述べて見ようか。》

《人々は(略)この詩人の薄倖を嘆じた。》

 

語り手と李徴自身の言説に「詩」が氾濫しているテクストは、どう見ても(李徴の内からも外からも)李徴が詩にとり憑かれた人間であることを表している。メイはシニフィエが無いと言うけれど、シニフィアンの内実をいちいち問う必要はない。それは無くても構わないし、低レベルの詩(詩人)であったも構わない。問題は読者に提示されているテクストに詩が溢れていることで、仮に低レベルの詩であろうが李徴と詩が切り離せないことを示している。

李徴が死後に名を残したい言っても、詩を離れて名が残っても李徴には意味がないのは、メイが言うような単なる名誉欲などではないからだ。出世した人間として名が残ることなど望んでいないのは、テクストにその旨が表記されてないことからも明らか。

テクストに「書かれなかったもの」を読もうとすると、ルーさんのような恣読に陥ることになりかねない。メイの執着する名誉欲がルーさん並みの恣意的な読みと一緒とは言わないけれど、テクストに溢れている詩を無視して名誉欲を前景化しても説得力はないと思う。なぜ李徴が詩に執着したのかは書かれてないことに「執着」しても、恣意的な結論がでてくるだけだろう。執着した理由などどうでもいいことで、執着していることが語られている点を素直に受け止めればいいだけの話だと思う。

「唐に天才詩人がうじゃうじゃいる」と決めつけてしまうと、これもルーさんのご都合主義的な誤読に陥る危険を感じる。ボクも気になっていて不明のままなんだけど、テクスト冒頭の「天宝の末年」という時代に著名な詩人として誰がいたのかという問題。李徴が詩で名を成したいと考えた時に、李徴の念頭にはどんな詩人が思い描かれていたかという問題。李徴はそのような詩人像を理想にしつつ、自己実現に励んだはずだから。

出世(科挙)に挫折した杜甫や韓愈や白居易(時代が異なるけど)が想定されていたとすれば、「天才」でもない李徴が杜甫のような詩人を目差して役人を辞した可能性は高い、ということになる。科挙とは無縁で商家の出という李白は、李徴からすると想定しにくいことになるか(商家の出というと日本の美術家、光琳若冲が想起されるけど)。同時代で成功した存在を目差して挫折した数多の人間の中の1人として李徴を位置付けるということだネ、それも執着がハンパなかったので虎にまでなっちまった可哀想なヤツ、という読み方でイイんじゃないの。