【ゼミ部】柳美里「JR上野駅公園口」(1) (付記あり)「書き手」という概念は?

@ 今使っているパソコンの調子がとても悪くて、ナ行とバ行の文字が素直に打つことができない。更新するのも大変時間がかかってしまうので、少しずつアップするヨ。

 

 ナオさんの発表が充実していただけでなく、オンライン参加の杉本クン(法政大院)はじめ参加者も実力者がそろったお陰でレベルの高い議論となった。マンジュ(鳥井)が久しぶりに参加したのも嬉しいかぎり! 在校生である院生の福井クンが参加したのはリッパ! 学部生もヒグラシゼミで各大学の院修了生と交流して、自分を高めて欲しいものだ。

 レジュメが欲しい人は関谷まで請求してくれればメール添付で送りますが、いずれ発表者が論文化する可能性があるのでここでは詳しくは紹介できない。それにしても先行研究がたくさんあるので驚いたけど(もちろん『民主文学』等は時間の無駄だけど)、文学畑ではない藤岡寛己という人が「作品全体を覆う過剰な戯曲的筆致がある」という意見には共鳴できない。むしろ個人的には詩的な表現が多いという印象が強かった。詩の研究専門のヒッキー先生やミチル姐さんは賛同してくれなかったけど、冒頭からして詩的な表現が過剰だと思うヨ。

「終わりはあっても、終わらない。」

「萎れた花を抜き取った花瓶に残った水のように・・・」

「この単調な風景のどこかに、痛みが在る。」

 そもそも不十分な教育しか受けていない語り手の表現にしてはオシャレ過ぎて違和感があると思うし、ナオさんもツクホーシも「外側の語り手」を想定していたけれど、それを通じやすく「作者」と呼ぶのを避けるとするなら、語り手の話を聞いていて後で語り直している「編集者」とすればどうだろうか。

 

(付記)議論している時にツクホーシたちが「外側の語り手」という言い方をしていたけれど、そういう言い方は分かりがたいから「書き手」や「作者」と言った方がいいだろうと締めておいた。実を言うと「語り手」以外に「書き手」という言葉が提起された頃、あまり関心を示されずスルーしていたからどういう議論があったかを知らない。でも上記の「編集者」を「書き手」と言ってもいいように思うけど、どうかしら?