横光利一文学会・大会

横光利一の小説は、感心はするけど感動はしない、というのが正直なところ。
自分とは合わない作家ながら、文学史的に重要なので付き合っているだけなので、著名な作品以外は読んでいないものも多い。
今回も話題になった「花花」とか、他には「家族会議」とか何とかは読んでいないし、読もうという気も起きない。
小林秀雄が「紋章」以降(?)は付いて行けなかったと言っているのも、いたく同感できる。
この学会には優れた知人も多いので属しているが、定年退職したら脱けようとは考えている。
(それにしてもこの学会の優れもの達は仲が好いので不思議な感じ、漱石中野重治の研究者の仲の悪さと比べてみよ。)
出張の旅の疲れを押してでも、地震津波のために半年延びてしまった大会に出かけたのは、あらかじめ送られていた発表の「予稿集」一覧が充実していたから。
行ったら受付に佐山譲(?)がいて懐かしいとともに、彼女が研究者としてガンバッテいるようで嬉しかった。
佐山さんは「畏るべき後生」の一人であるオスギ(杉本優)の「教え子」で、集中講義に行ったことがあってその能力の高さに驚いたのを覚えている。
驚きといえば会場にボッキマン(松波太郎)が来ていたことだけど、彼が一橋大院で提出した修論が横光論だったことを思い合せれば違和感は無い。
違和感があるとすれば、紹介した十重田さんも石田さんも誰もこの芥川賞候補作家(今は単行本化されている「よもぎ学園高等学校蹴球部」で一度だけ)の名前さえ知らなかったこと。
「廃車」で文学界新人賞は受賞しているが、彼の修論が手抜きだったのはこの小説を書いていたからか?
ともあれ北海道から遥々ミハルちゃん(と陰で可愛らしく呼んでいる中村三春さん)も参加してレベルアップしたせいもあり、期待通りの面白い発表と議論で久々に脳に強い刺激を受けた。
ひとつだけ本格的な違和感を抱いたので記しておきたい。
ナショナリズムはフィクションである点でもモダニズムだ、という議論に関してのこと。
三春氏が小林秀雄「故郷を失った文学」を絶賛しながら問題提起(?)したことと絡むのだが(それにしても小林秀雄を再読しようと思いながらも長いこと読んでないなぁ、と痛感)、この著名なエッセイで小林は「故郷というものがない」自分と対比しながら、「故郷」を実感できる瀧井孝作の感動について語っている。
石田さんが別の例を引いて、「チョゴリを着ない在日二世には、朝鮮族としてのアイデンティティなど無い」というような発言をしたのだが、ナショナリズムは歴史の浅いフィクションに違いないものの、瀧井孝作が実感したパトリオティズムはフィクションとは言えないのではないか、という疑問が残った。
在日第一世代が持つ朝鮮族としてのアイデンティティは間違いない手応えとしてあるだろうし、それは瀧井孝作が感じた「故郷」に通じるものだと思う。
それさえも歴史的なもので与えられたフィクションだというのは乱暴で、たかだか近世になって作られた「日本」なる怪しげな観念と一緒にしてはなるまい。
少なくとも在日一世や瀧井孝作の意識には、深く根ざしているものに違いない。
歴史の中で作られたものに違いは無かろうが、朝鮮族という自覚や「故郷」の確かさはそれなりの<実体>感を伴うもので、<仮構>(フィクション)と同列にはならないのではないかと感じた。
大会から時間が経ってしまったので、自身の感じたことが上手く再現できない憾みは残るが、今でも引っかかっているのでここに記した。
発言者の言葉を誤解していたらゴメンなさい!