「虞美人草」その2

「作者」をめぐって侃々諤々(かんかんがくがく)、とても面白い議論が聴けた。
「作者」と甲野を重ねる、今日のレジュメのような捉え方は当然出てくる発想だが、発表者ズーシーはどう論理付けるかで苦労していた。
ズーシーのように「作者」を「全知」として位置づけると矛盾が生じる、という指摘ももっともだが、では「作者」をどう位置付けるかとなると簡単ではない。
気になるのは、プロの作家として初の長篇小説を新聞連載する時に、漱石の念頭にあった(新聞)小説は何で会ったのか? ということ。
(と、ここまでは一昨日の夜に記したが、眠くなって中断したままだった。以下は24日の記事。)
鏡子夫人の「漱石の思ひ出」に記されていたのか、「金色夜叉」が連載されていた時に、漱石は強い関心を持って読んでいたそうだから、例えば「金色夜叉」のような古臭いけどチョッとは新しい大衆小説を範型にして「虞美人草」を書いたのではないか、という想像も可能かナ?
それにしても有光隆司さんが「坊っちゃん」の「おれ」を中心にしないという画期的な読みを見せたように、「虞美人草」を甲野や宗近達を中心化しないで、彼等の側に立つ多くの人物達を相対化する小野や藤尾の立場から読み直す論があっても良さそうなものだが・・・ホントに無いの?
来週のイクミンの「虞美人草」その3に期待しようか・・・