菊池寛と芥川龍之介  次は志賀直哉

菊池の「形」論は意見も出ないまま、概論の講義に傾いた。
テクスト(本文)と作品の使い分け、テクストの読みを決定するのは作者だと考えられていたのは半世紀も前のこと。
今では読者それぞれの読みが尊重されるものの、恣意的に読んでもいいということではなく、あくまでもテクストから傍証を引きながら自身の読みを補強しなくてはならない。
余談的ではあるが大事なこととして、文学の価値を他のものの価値で計ってはならない、ということ。
文学史的には、例えばプロレタリア文学が流行った昭和初期は、文学(芸術)の価値を政治的価値で計ろうとした誤謬の歴史だった。
一般的にも、あるプロ(職業)の業績の価値を決めるのは、そのプロの道で計らねばならないのに、日本ではその点が混乱されやすいということ。
例えば太宰治は人間としてはロクでもないヤツながら、その文学は最近特に評価が上がっているのが正当な評価なのであって、昔(今でも文学に無知なヤカラ)は人間としてダメだから太宰文学もダメだと短絡していた(いる)。
次回は「藪の中」についての各自の読みを発表してくれることを期待している。
芥川の後は志賀直哉「ハンの犯罪」(ハンの漢字が出ない)を取り上げるが、文学史的には「大正文学(者)」について概説する予定。
明治や昭和と比べて、デモクラシーの大正時代の文学(と思想)はどう差異化されるのか?
文学概論と文学史の二本立てでやっていると、なかなか先に進めないが、内容が薄いまま先を急ぐよりも、内実を豊かにしながらジックリ理解してもらうことを選びたい。