20日は安吾「堕落論」

13日は中野重治「閏二月二十九日」、レポの近藤さんが健闘した。
中野特有の<論理>だけでヒステリックに押して行く論法の貧しさが、時代に戻してみるとそれなりに力(影響)を持ったことが推察できたかも。
コケの一念を貫く中野のアイデンティティの貧しさと、それ故の(?)強さと対照される、小林秀雄アイデンティティの動揺(日本や伝統への目覚め・成熟)に由来する言動のハチャメチャぶりが興味深い。
殊に小林の「文学の伝統性と近代性」は動揺丸出しの情けない状態は、中野に追及されるまでもなく危険極まる(当時の小林の影響力を考えれば)。
伊藤整文芸時評に見られるとおり、当時のより若い世代にとって、中野と小林の論争とくれば何よりも興味深いものだったはず。
自己閉塞して<一義性>に硬直化する中野に対する、他者に自己を開いていった小林の<多義性(両義性)>といった構図は、当時の読者には見えなかったもの。
権力からの抑圧もあって「敵か味方か」の二者択一から免れない中野からすれば、成熟(変貌)に向かう小林の<両義性>から連想される「一貫性の無さ」が理解も許容もできないのは当然。
この対立の構図は現代でもあちこちで見られるが、それを自覚できるインテリジェンスを保持している者は少ないかも。