山田風太郎  松本清張  一人称の語り=騙り  自己閉塞  《物語化》  ポシビリティ(可能性)とプロバビリティ(蓋然性)

山田風太郎の「不戦者日記」に止まらずに未刊行の日記も含めて、三国連太郎が朗読するという番組(BSプレミアム)の再放送を聞きながら記している。
前にも聞いたけど、とてもイイ日記であり、朗読も素晴らしいので2度目でも飽きない。
風太郎の小説は昔朝日新聞に連載された「里見八犬伝」の翻案しか読んでないし、それがメチャ詰まらなかったので他の小説を読む気が失せたまま。
もともと大衆小説・通俗小説が読めないタチなので、風太郎の専門家である谷口基氏から関連本を寄贈されても読む気になれない(申し訳ない!)。
松本清張も読む度に面白いと感じないので、なぜ清張がベストセラーになるほど受けるのか理解できない。
つまらないテクストを面白く論じるのが研究・批評のだいご味だから、授業などで清張論を聴くのは興味を持ってきた。
しかし今回のテキストは結末が殊にオソマツな上に、レポが困ったさん留学生だったのですぐに切り上げることになるのかな、と思っていた。
ところが今回から(以前中丸センセイの授業で充実した発表を聴いた古株の)グッチ君が授業に参加してくれることになり、早速ボクの不案内な清張ひいては推理小説について沢山補ってくれたので、レポーター共々グッチ君に感謝、といったところ。
まるで議論にならないだろうと思っていた困ったさんの発表が予想に反して挑戦的な(奇抜な)ものだったので、それを「訂正」するのに四苦八苦するといううちに議論が深まるという面白さが生じた。
発表が意外にも(?)「私」の「荒唐無稽な考え方」や「自我中心」(自己中心と言うべきだろう)をシッカリ押さえていたので、そこから肝心の問題を展開することができた。
「私」の極端な自己中心的な在り方(ボク流の言い方だと自己閉塞)こそが、「私」が父の犯罪を《物語化》してしまい、父の《物語》を自身もなぞろうとしてしまう悲劇(外から見れば喜劇)を生むことになるわけだ。
「私」の《物語化》を補強していた時代背景として、父の場合は義妹と関係を持つと姦通罪になるので殺すまで思いつめたという状況が切り捨てられてしまい、自分と父を短絡してしまったという要素が強いというグッチ君の指摘は大事。
姦通罪の問題を抱えた作品としては先週取り上げた漱石の「それから」が有名であり、有島武郎は人妻との関係を夫から追及されたこともあって心中したと見られ、北原白秋は隣りの奥さんに手を付けた結果刑務所でオツトメをすることになったわけだ。


発表者は先週教えたばかりの《一人称の語りは騙りに通じる》という観点を忘れていたのか、これを拡大して解釈したのか、「明子が主人公を脅かした可能性がある」と「荒唐無稽」な読みをしていたけれど誤読というほかない。
「私」の語りから察せられる明子像は、「私」同様に閉じた「ロマンティックな性質」の女性だからこそ、不倫相手の義兄を「恋人」とまで思い込んでしまうことで「私」を追い込むことになっている。
何の取り柄もない「私」の故郷を美化したり、漁師の夫婦を男女の理想像とまで思い込んでしまうのは、明子が自分と「私」という「恋人」同士の《物語》のピース(断片)としてそれら美化し得るものが必要だったからだろう。
発表者は明子は(その名の通り?)明るい女性で少なからず男性体験があると読んだけれど、ボクの読みは図らずも「私」との関係がで処女を失い「傷物」(今や死後になったのは幸いだ)になったことで一層「私」を美化するハメになったものと考える。
グッチ君も言う通り、レポーターの明子像がまんざらあり得ないというわけでもないけれど、それは頭の中だけの「ポシビリティ」であって実際にあり得るという「プロバビリティ」の問題ではない、というのがグッチ君の趣旨だろう。
レポはまたテクストには多数の伏線があると指摘していたが、それは父と叔母が時おり語られるというだけでなく、冒頭に「私」の故郷がその昔には遊女の存在で知られたという「遊女」という言葉(イメージ)をくり返すことで読者に刷り込んでいることも伏線として押さえるべきだろう。


予想を大きく裏切ってテクストの読みが深まる議論ができたので、ヒグラシゼミの仲間もこの場にいることができたら良かったのにと惜しまれた。
清張はツマラナクテも、清張を論じるのは面白い?

@ 次週は徳田秋声「或る売笑婦の話」、チョッと知られた作品。