松本清張「菊枕」  3つの研究法

昨年の1年間、授業に集中できない「困ったさん」の[T]さんだったけど、聞けばそれなりの事情が無いわけでもなかった。
今年は授業態度がだいぶ改まったので期待はしたものの、授業時間が迫ってもレジュメ原稿を打ち続けていたので途中でもいいからすぐにプリントするように言えども、太々(ふてぶて)しくも指示に従わない。
授業開始を20分遅らせてもハンセイの色が薄いようで、レジュメの達成レベルも「困ったさん」で先(修論)が思いやられる。
「清張自身の考え方や気持などが込めて書かれた作品と考える」(原文のママ)という方針は今のご時世では古臭いけど、間違いではない。
ひと昔前はテクストに作家を読むというのがまかり通っていたのだし、今もその読み方を平然とやるムキ(古老が多い)もいるわけだから。
レジュメと議論から出てきた読み方として、
① テクストに作家を読む(作家論的作品論)
 清張の登場人物はほとんどコンプレックス(Tさんは劣等感と言って意味を狭めすぎ)が強くでているので、この方法だとテクスト間の差異が薄れてしまう。
 何読んでも同じ、という結果になりがちだろう。
② イデオロギーで読む
 レジュメに《彼女の行為はほかの女と大違いがあり、フェミニズムに近い感じを与える》とあるが、フェミニズムイデオロギーだからイデオロギーで読みということになる。
 これもチョッと前までは流行った方法ではあるが、これもテクストそれぞれの独自性を無化してしまいがち。
 ただレジュメが《しかし、彼女は依然として世俗の価値観から脱出できない》と続くように、ヒロインが新旧の考え方に引き裂かれている印象なので、そういう在り方を捉えると論になると思う。
③ 他の作品に形象化されたヒロイン像との比較 
 宇都宮大学の頃の同僚だった米田利昭氏の『大正期の杉田久女』を拾い読みしたら、けっこう面白かった。
 そこに紹介されている久女を論じたものが、それぞれ独自で異彩を放っているせいだろうか。
 清張の作品に先行する山本健吉吉屋信子の論は、清張がそれらから得たもの・それらに対抗して付したものを洗い出せば、清張のヒロイン像の独自性が提出できるだろう。
 清張以後の作品、例えば田辺聖子のヒロイン像と対比しても、清張のオリジナルな像が見えてくるだろう。
 また清張には評伝が多いそうだから、他の評伝作と比べればこの作品の独自な在り方が見えてくるだろう。
 清張は久女の弟子の橋本多佳子の評伝小説であり「月光」も書いているとのことだから、それらと比べても「菊枕」のヒロイン像の独自性が浮かび上がってくるだろう。

①の方法で論じても将来性が薄いので、Tさんには③の方法が向いているように思われるけど・・・