徳田秋声「風呂桶」  志賀直哉  関谷一郎の「和解」論

ストウ君が研究対象としている徳田秋声の「風呂桶」論で意欲を示した。
従来「心境小説」として読まれてきたこの作品を、今までとは異なった仕方で読もうという意図の発表だった。
今どきの院生(若者)ならこのくらいの意欲を持ってくれないとオモシロくないが、意図どおりに実現するのは別の能力が必要なのでムズカシイ。
先日のヒグラシゼミでマンジュが先行研究とは異なる読みを出そうとしたものの、実現しえなかったのも同じ事情だ。
そんなに簡単に新説が出て来ては我々研究者の商売が上がったりだ(成立しない)から、若き院生は何度も困惑したり挫折を繰り返してくれればいい。
その積み重ねを通してホントの能力=自分の《読み》を創り上げる能力(まさに創り上げるのだ!)を身に付けることができるわけだネ。
ストウ君の発表は、方向性が良かったけれど質問に対して十分な明快さで応えることができなかったのは、登場人物(主人公)・語り(手)・作者の3点の区分が明確でなかったのが主因だったと思う。
というわけでこの3点をハッキリ区別することが大事(「風呂桶」のような心境小説はこの3つが混同されたまま論じられてきたので)なポイントだろう(というわけで留学生にも分かるように詳しく説明した)。

しかし語り(手)が作者や主人公との距離を取ってない(と思われる)分、《戯画化》などがなされないので従来の読みを崩すのは難しくなるという次第。
ボクが志賀直哉「和解」を私小説として読まないという意図で「私読(シドク)」を創っていた時は、テクスト(本文)が次々に新しい読みに導いてくれたので我ながら驚いたけれど、同じ私小説作品でも志賀直哉のテクストが他の作家のものと違っているのは、私小説ではない読み方をテクスト自体が誘発してくれたこと。
志賀テクストが事実(作者)に密着せず、言葉が自立した世界を築き上げているために、他の私小説作家とは異なり多様な論じ方がなされるものと思われる。
実はボクの「和解」論の初出コピーがあったので、持参して上げようと考えながらも体調が回復したばかりのせいか、自家に置き忘れてしまった(次回は忘れずに持参しよう)。

次回は連休を挟んで5月10日、金子光晴の詩を取り上げます。