ヒグラシゼミ余話  黒古一夫

「五重の塔」の難しさはその語りの構造にもあり、ボクが「其三十二」で問題提起した「飛天夜叉王」のモノローグまでテクストに現れてしまうのだから、フツーでは考えられないことだ。のみならず最後の「其三十五」の語りの異質さを鋭く突いたのが、初参加のヒグチ君だった。

《噂し合えば》《様々の沙汰に及びけるが》《我れ知り顔に語り伝えぬ》《百余年の今になるまで、譚(はなし)は活きて遺りける。》などと拾ってみれば、「其三十五」は一般に人々の「噂」・「譚(はなし)」までもをフォローし得ているのであるから、 「其三十二」を含めて語りの自在さが分かると思う。100年余り後の「今」の時点から時空に縛られずに語り尽くすのだから、現代の語り論でいう「焦点化ゼロ」を超えるほどの自由な語り口であることが分かるだろう。高田さんに言わせれば、結句の《譚(はなし)は活きて遺りける。》などはまさに義太夫節ということになり、自在な語りが実は古い時代のものであることが理解できるだろう。

 

中国から留学した学大の院生であるチン君に、以前の指導教員を尋ねたら黒古一夫さんだというので、つい「黒古さんくらい超えなければダメだヨ」と洩らしてしまった。律儀なチン君が黒古さんの人柄を弁護するので、「人は良くても、研究がダメな人はたくさんいるヨ、黒古さんもその1人。」と続けたので、チン君がさらに懸命に黒古さんのためにガンバル様子に打たれて(?)、黒古批判を続けてしまった。もちろんお互いに笑いながら冗句のもの言いだったけど、ボクとしてはけっこうホンキだったのだナ。

留学生(特に文学研究が遅れている中国からの留学生)には、日本の文学研究が作家論的作品論の時代から作家を排してテクストだけで読む時代へと、パラダイム・チェンジを果たしている現況を伝えながら、(作家を度外視して)テクストだけで《読む》訓練をするように指導してきた(している)。今どきの日本人研究者は、よほど老齢の学者でない限り《作家》を読みに取り込まないということを強調してきたわけだ。老齢の学者の研究が見向きもされないように、同じような研究をしたところで評価されないことを伝えてきた次第。でないと、たとえ(遅れている)本国で評価されたところで、本国のレベルが新しい段階へとチェンジしてしまえば、無視されて行くしかないからだ。

黒古一夫さんの研究がほとんど評価されていない状況なのに、その後を追うような研究を心掛けても先は無いことをチン君に伝えたかったのだナ、冗談交じりに本音を含めてネ。もちろん研究価値ゼロで紙くず同然の小林秀雄の本を出し続けている佐藤公一のものに比べれば、黒古さんの著書はゼロとは言えないだろうけど、今どき目差すべき水準のものではなかろうということ。チン君は幸いにも学大に入学したのだから、レベルの高い先生方の指導の下で、評価される論文が書けるようになって欲しいと思うネ。もちろんボクを始め、ヒグラシゼミの仲間も協力を惜しまない。稽古は厳しいけどネ。

でも、またいらっしゃい!