清岡卓行「サハロフ幻想」

順序が逆になってしまったけれど、前々回の清岡作品。
今ではほとんど読まれることもない印象の清岡作品を、留学生が研究するというのだから嬉しい、というか有り難い。
とはいえ発表者のワン(王)君が大連生まれと聞けば、清岡を選択した理由は分かりやすいけど、それにしても研究が手薄なところをカヴァーしてくれるのは心強いかぎり。
春学期にも「鯨もいる秋の空」を発表してもらい、修論の一部という「アカシアの大連」論も読ませてもらったけれど、ワン君の研究は想定以上に安定していると感じた。
ネガティヴに言い換えれば切れ味が悪いということで、テクストの語りをそのまま鵜呑みにしてなぞる(たどる)だけで、鋭利な分析が欠けがちだ。
清岡作品を論じる際の危険と言えるだろうが、ナルシシズムすれすれの語りから距離をとって読む(分析する)姿勢を保たないと、語りをそのまま追認するだけの解説に終わってしまうことになる。
その辺の事情はワン君には伝えてあり、「アカシアの大連」論の感想としても、語り手が作者をモデルにしたと思われる人物の呼称が三人称だという問題についても検討するように指示してあった。
ワン君は柔軟な姿勢でテクストに取り組んでいて、「サハロフ幻想」は《「わたし」幻想》だと言い切る見識を保持しているので頼もしい。
肝心なところを押さえている上に、「わたし」の《自己否定》には《被害者》と《加害者》の両面があるという鋭い指摘をしているものの、この辺の叙述・論理がスッキリしていないのは残念だ。
論理展開が整理していないせいなのか、日本語の能力の問題なのか、いずれにしろ重要な論点だと思うので十分な検討を期待したい。
本作と類似した文体の作品として「海の瞳」があるとのことで、両作品の異同・対照も一端を披露してくれたけれど、人称の差異も含めて対照しながら論じると画期の論となる可能性も開けてくる。
(「わたし」と「私」の差異を論じるのは難しいので、何とも言い難い。)
以下は論じる際の技術の問題になるが、テクストに出てくる言葉、ここでは「陰画」(166ページ)を利用(ヒントに)してテクスト分析を展開すると、明快になることがあるので覚えておいてもらいたい。
例えばサハロフと過去の時空を《陽画(ポジ)》として語ることにより、《陰画(ネガ)》としての「わたし」と現在の時空を語ったテクストである、といった把握である。
留学生が頑張った発表ながら、理由のある人も含めて欠席者が目立ったのは残念。