【読む】中島岳志のおススメ  リベラル保守  三浦瑠璃  福田恒存

 前にも書いた中島岳志にますますハマっているヨ。前に紹介した時に『中村屋のボース』で大きな賞を受賞したと記したけど、大仏(おさらぎ)次郎論壇賞だったネ。ボースに注目したところがスゴイと思ったけど(ボースや中村屋についてはその時に書いたと思う)、左右を問わず観念的・急進的な在り方を批判しつつ、リベラリズムを説く立場が傑出していて信頼できる。『リベラル保守宣言』(新潮文庫)という言葉が、彼の立場を一言で表現してるネ。

 彼を単純に〈保守〉だと決めつけるのは、浅はかで理解力が欠落しているだけだネ。若い頃から自称〈保守〉で売り出した三浦瑠璃は、若いのに〈保守〉という珍しさだけで売ろうとした頃はただのおバカで醜悪だったけど、売れるようになってからはマトモなことを言うようになったように見えるネ(三浦については改めて書くつもり)。

  『リベラル保守宣言』の第三章は「橋下政治への懐疑」という題で、橋下徹の在り方・考え方を根底から批判して気持イイ。橋下の存在はもちろん知っているけど、まともにその考え方を読んだことがない。だいぶ前にブログに書いたのは、コンプレックスの塊りのようなヤツだということで、『週刊朝日』だったかの卑劣な記者が橋下が部落出身だという記事を載せて橋下を怒らせたのも(当然だ)、コンプレックスを刺激したからだろネ。反動的な言動も、おそらくは成長過程で周囲が進歩的な連中ばかりだったからだと推察している。そのコンプレックスが、進歩的存在に対するヒステリックな非難として暴発するのだろネ。

 中島さんはボクのように推察するだけではなく、キチンと橋下の書くものを丁寧に読んだ上で、思想的な見地から根本的な批判を加えているのがスゴイ。ボクの印象から言えば、橋下は彼が非難する観念的な左翼を裏返したような存在であり、今の若い者から維新の会が〈革新〉と思われているのが分かる気がしたネ。以下は断片的な引用。

 《彼の考え方は保守的どころか、反保守的であると言わざるを得ない》

 《伝統や慣習よりも「法というルール」を絶対視する傾向があります。》

 《とにかく多くの権益がからむ政治的課題の解決には、話し合いは無駄で、トップダウンによる独断的な改革こそが必要であると主張しました。》

 橋下は「法というルール」で縛られない限り《何をやっても構わない》という発想が強く、毎年1月10日に行われる西宮神社の「福男選び」で、仲間に他の走者のジャマをさせて「福男」になった男を手放しで賞賛したという。非難されたこの「福男」は返上したそうだけれど、橋下は《卑怯かどうかは個人の道徳や倫理であって、他人との関係は明確なルールのみで規律すべきなんだ》と語っているが、中島さんに言わせれば《共同体の掟(おきて)や他者との話し合いによる合意形成を重視》しない点で決して〈保守〉とは相いれない立場ということになる。

 

 後半は中島さんの〈保守〉の立場を説明しているのだけど、ここでは主に福田恒存(つねあり)の言辞を紹介しつつ自説を展開している。福田恒存と言えば、かの吉本隆明江藤淳と並んで保守的思想家として認めた人だ。シェークスピアをリアリズム演劇として翻訳したり演出したりもしながら、自分でも戯曲を残している。文学史に残る評論としては、政治から文学を守る立場から「一匹と九十九匹」という有名な評論を残している(岩波文庫近代文学評論集に収録)。

 中島さんが紹介している福田の主張で、個人的に面白く同意できたのは1965年の評論で時の首相・佐藤栄作ノーベル賞をカネで買った恥ずかしい男)に宛てた建白書だネ。

 《福田にとって、自民党という保守政党は、旧日教組のような革新勢力と同質の存在でした。徒弟制による職人育成よりも「国民の高校全入、大学全入」を重視する教育は、保革の表層的対立を超えた近代日本の病と捉えました。》

 近年になく痛快な考え方だけど、福田恒存がそこまで言っていたとは驚きだネ。

 

@ 中島岳志さんについてはまだ記しておきたいので、続きは改めて。