【観る】三谷幸喜「笑の大学」映画版  役所広司・稲垣吾郎  西村雅彦・近藤芳正  【読む】内田樹  三浦雅士  多木浩二

 昼間、BSプレミアムで「笑の学校」の映画版をやっていた。昨夜知っていたけれど、映画版はそれほど面白いとは思えなかった記憶があるので情報は流さなかった。でも意外に笑えたネ、ツタヤとかで借りて観る価値があるネ。

 役所広司は三谷の「巌流島」(以前ブログに書いたことがある)の巌流島でも熱演していたので、「笑の学校」の検察官役・向坂でも笑わせてくれている。年末だったかに録画した舞台の西村雅彦の素っ気なさが生み出す面白さほどではないながら、実はハナから台本に興味を引かれている感じが出ているように思えた。台本作家・椿の稲垣吾郎もイイ味を出しているものの、舞台の近藤芳正のプロの演技と比べるともの足りないかな(個人的には何でも茶化してしまう椿に己を見出してしまうボクとしては、吾郎クンに対しては厳しいかもネ)。もちろん映画は舞台以上に観客に分かりやすく書き・演技する必要がある、という条件も考慮しなければならないけれどネ。

 (ただし映画版には舞台版にあったエピソードである、西村家に舞い込んだカラスのことがカットされていてもの足りない。)

 

 実はこのブログは舞台版の録画を観ながら書いているのだけれど、ブログはだいたいテレビを見ながら記しているヨ。ノンキにブログを書くということはなく、クラシックを聴きながら本を読むようにテレビを見ながらだネ。本の方は脳がスッキリしている時は、ゼミの前から読んでいた内田樹レヴィナス論の文庫『レヴィナスと愛の現象学』と『他者と死者』を中心に、スッキリしていない時は高階秀爾ゴッホの眼』や三浦雅士『身体の零度』(講談社メチエ)等々を読んでいる。内田は《質より量》で書き過ぎで薄すぎのものもあると思うけれど、レヴィナスに関してはホンモノの味わいがあるからおススメだネ。美術が専門の高階を読んだら、小林秀雄の「ゴッホの手紙」のツマラナさを痛感したヨ。

 三浦雅士浅田彰がむかし三浦は批評家ではなく、単なる編集者でしかないと頭から否定していたのが忘れられない。さすがにニュー・アカ(デミズム)の旗手は、広く浅い知識の付け焼刃のように見える存在は許しがたいのだろネ。三浦本は最後の章の「舞踊」から読んで感心したのだけれど、最初に戻って1・2章を読んだら薄っぺらな印象が拭えなかったところ、並行して読み始めていた多木浩二『「もの」の詩学』(岩波現代選書)と比べると、素地の厚さに圧倒されたネ。確かに多木浩二と比べたら、三浦雅士は《絶対値》の小ささは隠しようがないものの、三浦の《器用さ》は絶対的だネ、誰もマネができない水準に達しているヨ。

 

 しかし観終わってみると、やっぱり「笑の学校」は舞台版がスゴサが伝わるネ。