【読む】綾目広治『小林秀雄 歴史のなかの批評』について、その3

 3月に2度、綾目さんの小林論について書きながら、ゼミのための準備・残された問題に関わる「論争」の長期化などが続き、すぐにまたゼミがあって準備と事後処理があり、ブログ更新の話題が溜まっていたり・今や連休中の釣り部の人数確認と宿探しに追われて落ち着かないけど、「その3」を記してまとめておきたいと思う。綾目さんに礼状代わりにブログ記事をお送りしようと思いながらも、遅きに失しているからネ。

 小林秀雄論だけにあまり興味のある人は多くはないと思うけど、1つ訂正、というか保留しておきたい記事があり、それは「その2」で鹿島茂の小林本を目次だけで読む価値の無い本だと記してしまったものの、信頼するヒッキ―先生が読んで面白かったと言うので、判断を保留にしておきたい。学生時代とは異なり、今やエッセイストとしてたくさんの本を出し、その中でビックマウスぶりを発揮している印象の鹿島が、専門のフランス文化についてならまだしも(面白い)、小林秀雄についてまで放言しているのかと呆れた思いがあったのだけれど、1行も読んでなくて表題と目次だけの判断だったので、今度立ち読みする機会があったら本文も読んでみたいと思っている。

 

 小林秀雄とはまったく縁のない鹿島とは異なり、近代文学研究を専門としている実力者・綾目さんの著書だから、読めばそれだけのものを得ることができるのは言うまでもない。しかし目次の全12章のを見ると戦前の小林の活動を始発期から順を追って論じているので、文芸評論家として活躍していた昭和7年頃までの小林について全く興味を失っているボクとしては、今さら感が先だって読む気になれないのだナ。章題・副題を見る限り、「様々なる意匠」「宿命」「マルクス主義」「横光利一」「論争」などと言われても、ボクに限らず小林研究者なら「お腹イッパイだから結構」という感じだろうネ。これ等の論はじめ書中の古い論文は、現在読む価値があるのか覚束ない印象で読む意欲が湧かないのだネ。もちろん小林で1書をまとめるためには、新旧にこだわらずに収録したという事情は分かっているし、小林について知りたいという人向けの啓蒙的な意味では必要なのだろうネ。

 というわけで、頂戴した直後には最終章の「本居宣長」論から読んだのだけど、実はこれも30年以上も前の論文だった。それはともあれ、橋爪大三郎小林秀雄の悲哀』を読み始めてから(まだ3分の1くらい)研究者顔負けの丁寧な分析ぶりに圧倒され、「本居宣長」のツマラナさ・読む必要がないことを丹念に示され、何度も挑戦しながらも50ページくらいで挫折したまま気になっていた論が、読まなくて良いのだと教えられて安心していたので、綾目さんの論が気になったのだネ。橋本さんの本については1度ならず記したのでここでは省くけれど、綾目さんの論がこれに付け加えたり・凌駕する点があるかというと、どうなのかな?

 もちろん綾目さんは持ち前の丹念さでテクスト(初出本文まで引用しているのにはビックリ!)を読み込むだけでなく、先行研究なども幅広く渉猟しているのも(ズボラなボクとしては)頭が下がるばかり。理論畑の綾目さんらしく、現象学ヘーゲルメルロ=ポンティデリダディルタイなどと比較したり・引用したりするところは綾目さんの独擅場(ドクセンジョウと読み、独壇場は慣用語)だネ。そうした手続きが小林の一面を明かにしているには違いないけれど、嬉しかったのは綾目さんが遠慮がちにではあるものの、戦後の小林秀雄の評価についてハッキリ言ってくれている点だ。「ゴッホの手紙」「近代絵画」「感想」(未完のベルグソン論)「本居宣長」は、《どれも成功作とは言えないだろう》と明言している。どの文学者でも、研究している者はその対象をネガティヴに語れないという弱みがあるので、さすがのボクでも以上の4作品はツマラナイと公言することはあっても、論文の中では書けないままでいたところ、綾目さんは小林研究者ではない強みで《戦後の小林秀雄が必ずしも高いとは言えない次元に止まった》と言い切ってくれている。これだけでも橋本さんの評価を先取りしていると言える点では、ボクとしては有り難い限りだネ。ボクの『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』が戦後の小林については黙って無視したところを、バカ正直な(?)綾目さんが代って言ってくれた感じがするからネ。

 最終章について書いただけで大分長くなってしまったので、「その4」に続けるネ。

 

 『本居宣長』が出版された時、小林秀雄が「近所のそば屋の親父も買ってくれた」とか言ったほど売れたものの、その価値が分からなかった(読むことさえできなかった)ボクとしては小林という名前だけで売れているのでは? と不審に思っていたものだ。にもかかわらず、吉田秀和はわざわざ近所の小林宅へ行き、「私はこの本は良いとは思わない」と言ったと伝わっている。日本語の音楽批評を確立した吉田は、小林の「モオツァルト」を読んで言葉による音楽批評の可能性をつかんだというのは有名な話。その吉田がキチンと読んだ上で「本居宣長」を評価できない旨を、小林本人に伝えに行ったというのはスゴイね。

 ボクの勝手な推察だけど、美術評論もハイレベルなものを書く吉田は、「ゴッホの手紙」や「近代絵画」の限界・ツマラナさをいち早く気付いていて、「本居宣長」に至って黙っていられずにダメ出しをしに行ったのではないかと思うネ。