【読む】新書のアサマシさ  中野信子  《メディアに消費される存在》

 先日チョッとブックオフに行って新書の棚を見て驚いたネ。ナオさんが発表した平野啓一郎「Re :依田氏からの依頼」がらみで、斎藤環の新書を探したのだけど、1冊も無かった。数冊持っている斎藤さんの本はどれも読み応えがあるのだけど、ブックオフに並んでいたのは表題からしていかにも「売らんかな」といったクダラナそうな本ばかりで、反吐(へど)をもよおすネ。10種類以上の新書があるようだけど、どれも中身のある本とも思えないヨ。近代文学でも紙くず同然のお粗末な研究書(佐藤公一がその典型)があふれているけれど、それほど高価でないせいか、新書は汚染水のタレ流しのように無価値(でも害はある)なものがウンザリするほど出版されている。

 日本の文化はここまで腐っているのかと呆れるばかりだヨ。チョッと名前が知られていれば売れるだろうという見込みで、似たような本を次々と出している。(あまり言いたくはないものの)同級生の内田樹の手抜きの新書については以前書いたけど、内田に限らず(好きなタイプながら)中野信子の新書がいつの間にかたくさん出ているので驚いたネ。新書は当ればカネになるので(養老孟司バカの壁』などが典型かな、読んでないけど)、何でも出したがるのだろうナ。そう言えば最近彼女の着る物や装身具が、金メのものに変ってきているネ。そんなに書きたいテーマがあるはずないので、彼女が書きたくて出しているのではなく、《メディアに消費される存在》に成り下がっているだけなのだろうけどネ。

 中野や内田に限らないけど、そんなにカネを儲けてどうするのだろ? 限りある人生なのだから、貴重な時間を自分のために使った方が幸せだろうにネ。

 

@ 『シドクⅡ』が生涯最後の本と記したけど、それは自分の書きたいテーマで書く本のことだったネ。その後は自分のためではなく、ボクの研究の基礎となった小林秀雄のために本を残しておきたい気持が強くなっている。上記の佐藤公一がその最悪の例だけど、小林についてのヒドイ本が氾濫しているので、研究した者として責任を感じているほどだからだネ。小林が勝手に誤解されているのを横目に見ながら死んで行くのは、忍びないからネ。まだ資金が無いので、少しずつ書きためて3年後くらいに出せればイイなと考えているヨ。できるだけ安い定価で出したいのだけど、そうすると新書かナと思うと膨大な愚書にまみれてしまいそうな危惧が先立つ。そもそも内実のある(したがって売れそうにない)新書を出す出版社など無さそうなので悩みは深い。