【読む】山本一生の内田百閒評伝

 【読む】コーナーが続いてしまうけど、贈っていただいた本を謝意を込めて紹介するのが続いている次第。今度は学部生時代の知人(同級生の全共闘仲間ではなく、隣りのクラスの知り合い)が出版した内田百閒伝『百間、まだ死なざるや』(中央公論社、税込3960円)(本書では何故か「百閒」ではなく「百間」)という大著。一生(いっしょう)は文学専門というわけではなく、巻末の著者紹介には「近代史家、競馬史家」とあるように競馬の本もたくさん出している。学部生の頃に競馬の話を聞いたことは無いけど、煙草の喫い方を教えてくれたのはよく覚えている。ショート・ピースだったと記憶しているが、煙は一気に口の中に吸い込むと咽(むせ)ないのを実践して見せてくれた。世の中には実に美味そうに煙草を喫う人がいるものだが、一生もその1人かな。卒業後十数年経って再会したのは、お互い本を出してもらっていた洋々社が、装丁家間村俊一さんの画集『ジョバンニ』(宮澤賢治の世界をネコで表現)の出版記念会だった。驚きと懐かしい瞬間(とき)だったネ。

 いつも言うように、ボクはよくできた作品には関心があるけど、作家自身の生活(生涯)にはあまり興味を覚えない。2冊の「シドク」は作家も作品も《読む》ことに徹しているから、最初の著書『小林秀雄への試み』も副題の「〈関係〉の飢えをめぐって」のとおり、小林の事実を再現しようとしたのではなく、ボクの《読み》を展開したまでだった。

 そのボクでも一生の本書は、つい読みたくなる評伝で面白い。それは一生の書き方が上手いせいもあるだろうけど、何より百閒という人の魅力なのだろうネ。個人的には嫌いな人種で、弟子に貸したカネの記録をとっていた漱石も百閒には手を焼いていたと記憶する。一言でいえばズウズウシイのだネ。「軒を貸して母屋をとられる」という言葉があるけど、雨宿りで軒を貸したら上がり込み・飯を食わさないと帰らない(食っても帰らないヤツもいるけど)というタイプだネ。好く言えば子供のままで社会性が欠落している、ということになるから百閒ファンも少なくないようだ。一生もその1人だろうし、ボクが学生時代から敬愛していた故・越智治雄先生のライバルだった学大名誉教授の内田道雄先生も、『内田百閒――『冥途』の周辺』(翰林書房)でやまなし文学賞を受賞している。

 一生の本はそういった問題児・内田百閒がキツイ時代の中でどう藻掻(もが)いたかが、とても詳しく描かれていて楽しい。全28章それぞれの章題に惹かれつつ、まずは19章「二・二六事件から「相剋記」へ」を一気に読んでしまった。ご多分に洩れずカネに関する記述がくり返されている中で、野上弥生子に日記に《内田百閒の中公の小説(註・「相剋記」)をよむ。彼も狡い男だ。自分の女の事を省いてゐる。》と書かれているのは笑える(笑って許したワケじゃないけど)。作品でひたすら妻を悪者として書きながらも、夫婦仲の悪化した原因である己の浮気については、ジコチュウの子供らしさを発揮して反省の色がまったく無いからだ。これぞ百閒! という感じだネ。