千葉さんのレジュメ(希望者には送ると記したよネ)の再読は終わってないけど、とりあえずの感想を書いておきたい。
レジュメと口頭発表は博論を元にバフチンと小林秀雄の「罪と罰」論を比較対照したものだけど、千葉さんは気を使ってか(?)関谷一郎『小林秀雄への私的試み 〈関係〉の飢えをめぐって』を発表に取り込もうとしたために、かえって博論の論理展開を濁らせてしまった感をぬぐえない。本書の第三章「〈直接性〉の救済と呪縛」で展開されている〈直接性〉に触発されて取り込んだのだけど、そもそもボクが「直接性」と名付けたのは主体と対象の間に観念や概念を介在させない捉え方・在り方であり、その典型が志賀直哉であると小林が美化したのだネ。
とするとドストエフスキーの在り方とはだいぶ異なるので、小林のドスト論に〈直接性〉を読み取ろうとした千葉論には違和感をぬぐえないのだネ。無理に〈直接性〉を導入しない方が論理がスッキリすると思うので、レジュメを読む時には〈直接性〉を取り除いて読み進めた方が理解しやすいと思う。
バフチン独自のポリフォニーによる小林秀雄理解にも無理があると思うけど、千葉さん以前にむかし清水孝純(たかよし)という人が小林の「Xへの手紙」をポリフォニーの観点から読み取ろうとしたのだけど、ボクは当初から清水論は思い付きだけの愚論だと思っていたのだネ。「Xへの手紙」に限らず小林の作品に通底するのは〈自己完結〉や〈自己閉塞〉(志賀直哉に典型される〈直接性〉的な在り方から生じる)であり、モノローグではあっても決してポリフォニックな世界ではない。だから小林の「罪と罰」論にポリフォニーを読み取ろうとする千葉論には賛同できないのだネ。
私見によれば、日本(文学)にはポリフォニックな世界が創造されることが稀であり、その代表が志賀直哉の文学だと思う。当日の討論中に漱石と春樹を括(くく)ってモノローグ的だと言う人がいたけれど、その場でボクが言ったのは春樹は志賀と同じくモノローグの世界だと思うけど、漱石は同列に括れないということ。ボクの持論(他にも同じ考え方をする人も少なくないと考えているが)では、「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」に始まるモノローグ的世界を創造していた漱石は、様々な試みをしながら最後には「明暗」のようなポリフォニックな世界を創り出したことを忘れるべきでない。よく言われることだと思うけど、「明暗」に登場する延子や秀子などの女性たちの葛藤・論争に注目するだけでも、漱石は日本(文学)の限界としてあったモノローグ世界を乗り超えて見せたと思うのだネ。
「明暗」(や「道草」)を未読の人は、以上の観点から漱石晩年の傑作を味わって欲しいものだ。ボクの漱石像の概略は、『シドクⅡ』の巻頭論文の「漱石文学の変遷」を参照されたい。