「藪の中」  不確定性理論  大正文学

更新が遅れるばかりで申し訳ない。
明日22日が休講ということで、今頃の更新となったので1週間前のことは忘れていて・・・
「藪の中」を不確定性理論を使って読むと予告したけれど、それほど奇抜ではないと思う。
現代では<事実は一つではない>というのが、共通認識になっているからである。
一例として山口昌男共著『知の旅への誘い』(岩波新書)から引用して紹介した。
不確定性理論では、量子の世界はあまりに微小なので、観測者の影響を受けずにはいないので、観測する度に世界は一定でないという。
それを敷衍した現代世界では、登場人物3人がそれぞれの現実(事実)を生きているのだから、証言が食い違うのは当たり前ということになる。
もちろん芥川にはそうした認識は無く、ただ机上の空論(思い付き)として何やら奥深い人間認識を暗示しようとしただけで、「藪の中」には<真相>は無いというのが今日のテクスト理解。
この思い付き止まりという点では、テキストの「形」外の菊池寛も芥川も同じ穴のムジナ。
東大の学生達の同人誌による『新思潮』派の小説世界は、しょせん書斎内の観念的把握という限界を出ることはない。
事情は学習院のお坊ちゃん達の『白樺』も同じで、志賀直哉「范の犯罪」も「藪の中」同様に<真相>はない。
二つの同人誌を中心とする大正文学は、書斎の観念的戯れにとどまるということ。
彼らが乃木希典の殉死を外在的(観念的)にしか受け止められなかったのは、芥川の駄作「将軍」にも明らか。
志賀や武者小路も乃木の死を外在的にしか見なかった証拠と、鷗外・漱石という明治の作家が乃木殉死を内在的に受け止めた証拠とを比べつつ、大正文学の特色をまとめたい。
昭和の文学者である小林秀雄の「将軍」批判を紹介しながら、昭和とも差異化される大正という時代の特色である。
授業では読まないかもしれないが、鷗外と漱石の作品は自分で読んでおくこと(つまりは試験範囲)。