安吾論

「神様」論を公開したら、以前の安吾論も公開することを思い付いて試みたものの、最初のページしか貼りつけられなかったけれど、とりあえず。
坂口安吾研究会編『坂口安吾 復興期の精神』(双文社)に収録。他に大澤真幸林淑美の論考もあり。

何やらゆかし、安吾と鷗外―― 「白痴」・「二流の人」など                    関谷一郎

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安吾と鷗外、もう一人柄谷行人と付け加えてみたい気がしている。なにやら興味深い結論が導き出されてくる予感で心ときめくが、そこまで深入りする余裕はない。日本の批評文学史の主線で言えば、小林秀雄が切り拓いたものを吉本隆明江藤淳の二人が分化しつつ継承・進展させ、それを新たに統合しながら独りで受け継いで飛躍させたのが柄谷だというのが私の理解である。蓮實重彦を位置づけるとすれば、小林秀雄から出た支線として中村光夫篠田一士というつながりを考えれば、蓮實はこのラインで押えることができよう。蓮実は柄谷同様に批評史上画期的な展開をもたらしているが、あくまでも傍系と言わざるをえない。それは蓮實重彦の業績が柄谷行人に及ばないというのではなく、日本文学史の流れの主筋が小林から柄谷へというラインで形作られているということである。私(達)は柄谷の評文から彼の〈肉声〉を聞き取ることができるが、蓮實重彦の文章から聞こえてくるのは機械による合成された音声であっても、決して〈肉声〉ではない。もちろん、それが蓮実の批評の欠点だというわけでもない。
 《作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切りはなして作品を論ずる気にはなれない。》とは、柄谷が鷗外の歴史小説を論じた「歴史と自然」(昭49・3)の冒頭の一文である。ヴァレリーのフレーズは小林秀雄がくり返し引用したものだが(1)、小林がこだわった「作家の顔」(2)は紛れもなく柄谷に受け継がれている。蓮實重彦が破砕したのがこの「作家の顔」であるのは言うまでもない。蓮實はフランス直輸入の文学観に全面的に依拠しつつ、日本文学の主線をまさに根底から批判した存在感ある傍系なのである。

 いきなり脱線してしまったが、戦後批評史を語る場ではなかった。私にとって、安吾と鷗外という意外な組み合わせを媒介したものが、実は柄谷行人だということから始めたかっただけである。安吾に対し人並み程度の興味しかなかった頃、柄谷の気合いの入った安吾論に接して不思議な気がしたのを忘れない。取り合わせがいかにも奇妙だったのである。柄谷の書くものは例外なく面白く、安吾論も十分刺激的ではあったが、なぜ安吾なのかは不透明なまま問いとして残っていた。暫くしてナルホドと思えたのは、柄谷が自身と安吾との「類似性」を語った次の発言によってである。
 《安吾は二十一歳の時に鬱病になってむちゃくちゃに語学をして治ったというのですが、僕もだいたいそういう経験があったのです。(略)半年位は聞くのも、書くのも、読むのも全部英語でやるというような勉強をしたんです。(略)何も考えられないから語学をやったのです。しかし、いつの間にか二、三年ごしの鬱状態が治っていた。》(『解釈と鑑賞』平5・2)
 ほんの一部の引用に止まるが、実に興味深い柄谷の〈肉声〉を聞くことができる。論じる対象との〈ヘソの緒〉つながりにこだわる一昔前の批評・研究の流れを強調しようとするのではないながら、なぜ安吾なのかが納得できたのである。
 もう一つ「柄谷がなぜ?」と思わせた論がある。先述の「歴史と自然」がそれであるが、発表当時だれも柄谷が鷗外を論じることなど想像できなかったはずである。鷗外論を漁っていた学生の頃、群を抜いて面白かったのは山崎正和『鷗外 闘う家長』(昭47・11 河出書房新社)とともに柄谷のこの論であった。まさに核心を突いた論考で、感服という言葉が当てはまる記憶として明瞭に残っている。ともあれ何ゆえ柄谷が鷗外を、それも歴史小説を取り上げたのかは未だに謎のままであるが、柄谷の論考はやはり〈肉声〉が響いていた初期のものが批評家らしくて良いと思っている。その後は知識依存に傾いて代替可能な存在になっていくようで、インパクトが弱まる印象なのが惜しまれる。ブッキッシュな批評・研究なら、掃いて捨てたいほど溢れているから。


最近、志賀直哉と対照させながら太宰文学の特質を考える機会を得たのだが(3)、志賀や太宰の文学における〈主人公・他の人物・語り手・作者・作家〉それぞれ相互の〈同一化〉志向の強さに、日本的心性を改めて痛感したものである。〈同一化〉の連鎖を検討する際に、漱石の行程をたどってみたのであるが、「明暗」の苦闘にこの〈同一化〉の連鎖を断ち切ろうとした痕跡を見出した思いだった。主役的な津田が受ける相対化のされ方は、それ以前の日本文学では考えられないものである。そこには確かに互いに〈同一化〉しえない〈他者〉の存在感があり、主人公以外の〈他者〉の声に満ちた多元的な世界が構築されている。志賀直哉に典型される日本近代文学一般とは異なり、中心人物に一元化されていない在り様は無類のものであり、今さらながらの驚きであった。
「明暗」の多元的世界に打たれながら想起されたのが、柄谷の鷗外論であった。屈辱に堪えがたい小倉左遷の当日、新橋駅で見送ってくれたのが乃木希典であり、その旧友の殉死に深く動かされた鷗外が一気呵成に「興津弥右五衛門の遺書」(大元・10)を書きあげたのは周知であろう。柄谷もここから始めている。