次回は白樺派から漱石へ

春学期の感想にも「出席を取ってくれ」という要望があったが、それに応えたので介護体験に行っていた受講生はその証明書類を提出すること。
「藪の中」の読みを発表してもらったら、Iさん(許可を得てなので匿名)が1年生とは思えない模範的とも言うべき私読を披露したので驚いた。
Iさんの読みと、柄谷行人の「藪の中」論に紹介されている中村光夫福田恒存の読み等とを関連付けながらまとめた。
柄谷の初期評論集は、日本近代文学を論じていて読ませるものが多いので勧めた。
『畏怖する人間』(漱石論など)、『意味という病』(鴎外論など)は共に講談社文芸文庫)。
テクストの読みは作者が決めるのではなく(その場合は一通りの読みに収斂せざるをえない)、読者が各自の読みを創造するのだという考え方を身に付けるように説いたが、その際に恣意的にならないように必ずテクストから傍証を引き出して展開しないと説得力が無い。
柄谷もIさんも言う<他者>が欠落しているのが芥川の文学世界であり、それは菊池寛ほかの新思潮派の特色と考える。
自分からは捉えがたい、そして自己を相対化する<他者>の存在が芥川には欠けている。
結果としてその世界は書斎に閉じこもって書かれた<観念的>構図でしかない、ということである。
20世紀になると「事実」は一つではないという考え方が一般化するが、次回はハイゼンベルクの「不確定性理論」と関連付けて「藪の中」を読んでみたい。
次回は志賀直哉「ハンの犯罪」を同じような発想で読んだ上で、白樺派と新思潮が大正文学として共通する限界を持っていたという把握を展開する。
漱石の「夢十夜」は詳細には読まないので、各自楽しんでおいてもらいたい。
大正文学者と明治の文人達との差異を、乃木希典の殉死をめぐる見解の差も視野に入れながら考えてみたい。