昭和文学会秋季大会  鈴木志郎康  閉店までワイン

17日土曜に昭和文学会に行ってきた。
久々の詩歌特集で志郎康の講演があると聞けば、卒業生や現役生にい声を掛けながら行かざるをえない。
その現役院生二人が来たので(エライ!)、ご褒美に終わったら飲食に連れて行こうと思ったら、二人とも別の予定があるとかでザンネン。
(代わりに明日22日に国分寺で呑む予定)
学会の委員になる前は、参加しに来た学生達を連れて呑みに行けたのだが、委員になると懇親会に出なくてはならないので果たせなくなっていた。
今は現委員会には済まない気持は十分かんじながらも(学大その他縁のある院生が3人も委員のようでなおさら心が痛むが)、せっかく役員を下させてもらった立場を利用して、学大の修了生二人と一橋大現役院生(「荒地」研究者)を連れてイタリアンへ。
7時前から閉店で追い出されるまで呑んでしまったのは楽しいからだけど、10月締め切りの原稿に追われている身を考えればもっと早く帰らねばならなかったはず、二人を最後まで付き合わせてしまい後からハンセイした次第。
4人でワイン4本(たぶん)その他だからそれほどの量ではなかったせいか、無事に帰れたのも幸い。
トシとともに外で呑むのが怖くなるものだ。
トシと言えば発表者の一人の大塚氏が頭髪でトシを感じさせたが、後輩がわが身と同じ道をたどってくれるのはホッとさせられるものである。
腹が減ったので持参のパンを食うために中座したために途中から聞いたのだけれど、相変わらずソツのない一方で「?」も感じさせる発表だった。
「?」というのは、澁澤の視覚的に変形した作品には曲が付けられないと決めつけていた点で、あれはあれでどこから歌おうが構わない形で歌になると思ったのだけれど・・・
大塚氏の発言だったか忘れたけど、中也の詩に曲が付けやすいというのも、必ずしも中也詩が内在的なリズムを持っていることと直接の関係は無いと思う。
中也詩に友川かずきが付けた曲でも、「湖水」のようにマッチしたり「帰郷」のようにズレまくったりで、一概には言えないだろう。
中野重治の研究者のイメージが強い佐藤(健一)さんがあれほど現代詩(志郎康のみ?)に詳しいとは意外だったけど、昔ルー・小森の著書における「図と地」の取り違えを指摘していたのを思い合わせると、結構守備範囲が広い人なのかもしれない(そういえば佐藤さんの頭髪も白さが増したようだ)。
トシのせいで名前を忘れて申し訳ないながら(手元に資料なし)、当日の発表者の一人で鮎川の名著がある女性は期待通りで際立って面白い発表だった。
この人も佐野元春の番組を欠かさず見てるそうで意外だったが、シンガーソングライターの9割が詞よりも曲が先という知識も意外だった。
詞が先というのが9割という方が、曲を書けないボクみたいな者には納得しやすいから(マーラーの歌曲もリュッケルトのように、詩が先だし・・・)。
昔はよく詩歌を授業に取り上げたものだが、教育の専門学校に堕している今の学芸大のカリキュラムではそんな余裕は無い。
その時の経験では、三上寛の詞(詩)は曲が無くとも鑑賞できたが(「オートバイの失恋」等)、中島みゆきの詞は曲が無いと詞だけでは鑑賞に堪えなかったのはボクの偏見のせいだったのかな?(大好きだった「狼になりたい」もダメだった。陽水やユーミンも同じだろう。)
やはり寛は詩人だけど、みゆきは詩人とは言えないという結論だったけど、今回の発表と議論を聴いても結論は動かなかった。
それにしても志郎康の講演と討論の発言は面白かった。
もちろん持参した現代詩文庫に載ってる詩作品の方が遥かに面白いのは当然だけど。
紹介してくれた最近刊行されたという全詩集を、院生がすぐに注文したというのも理解できるのは、その人と作品の魅力のためだろう。