イチロー引退記念公演記録(2)

 どこから話せばいいのか、先祖は京都で天台宗の坊主だったと関谷本家の系図にあるそうだけれど、どうせインチキ物だろうから興味はない(ちなみに母方は山田姓)。確かに祖父母の位牌の戒名は天台宗のものであり、両親のものは浄土真宗に変わっているが、おそらく菩提寺を移したためであろう。本家は小間物屋なのだけれど、祖父は分家して当時としては時代の先を行く靴店として成功を収めたらしい話は、子供の頃に聞かされた。靴店は当時の前橋では三軒しか無かったとか、祖父が市内で三台しかなかったスクーターを乗り回していたハイカラさんだったとかも聞いた。笑えるのは昼間から馬場っ川ほとりの遊女屋に入りびたり、知り合いが通ると「オイ、上がれ!」と声を掛けて困らせていたという話。父がその点では女房一人で通した(たぶん)のと正反対で、自分としては祖父の血を受け継いでいることを願っている。昼夜ガンバリすぎたせいか、祖父は心臓を悪くして四五歳で逝去、残された六人兄弟の長子であった父は、一八の歳から靴屋の小僧に出て一家を養い続けたというのだから頭が上がらない。父は(結婚してからは母も)弟妹たちが自立するまで良く面倒をみて敬愛されていた。末っ子の叔父は敗戦一〇日前に、前橋空襲の犠牲となったと言えば、昭和二四年生まれのイチローの生きた時代が想像できよう。
幼い頃に夜店などで見かける進駐軍兵士(アメリカ兵)が怖かった記憶は消えない。一度ならず家の前を戦車が通った、恐ろしい光景も忘れがたい。早逝した叔父の位牌には《八月五日敵機来襲、行年十五才》とあって胸が締め付けられる。ベトナム戦争が盛んだった高校時代から反米感情は保持し続けているものの、アメリカが無辜の民に対する空襲を時代を隔てて繰り返しているのが直接の理由ではない。そんなことなら、日本軍も重慶を空襲して中国の民を殺していて、どちらも国際法違反である。原子爆弾投下も信じがたい非人道ぶりで反米感情を煽(あお)られるものの、被害者意識を固める前に状況を冷静に捉えることが肝心、被害者意識は過ちの元というのが常日ごろの主張。
幼時のエピソードとして後につながりそうなものは、銭湯に行くたびに湯船から溢れる湯を肩に受けながら眠っていたことと、あるとき母の背中で泣き続けている理由を近所の小母さんに問われ、母が「原爆の映画を観てきたままずっと泣き止まない」と応えている姿。すぐに眠ってしまう幼な子は昼寝が欠かせないまま今日に至っているが、反戦・反原爆の素地はつとに幼時に用意されていたように思える。もちろんそれも後付けであるが、もっとも多く訪れた地方都市は広島ではある。
叔父といえば、イチロー物語で一番大事なのは長女だった母の一番下の弟。この叔父は警察予備隊から自衛隊員となり、(たぶん)戦死の可能性が強まると除隊して実家の車の修理を手伝い、やがて消防隊員へと転職を続けた。まぎれもなくこの叔父も時代の犠牲者に違いなかったが、歳が比較的近かったせいか肉親以上に理解してくれていた手応えを感じていた。イチローの代表的論文である「和解」論の、叔父に関する読みはこの叔父あってこそという自覚はある。
エディプス・コンプレックスは「和解」の順吉に劣らず激しかったが、イチローの場合はピンポイントで父親に反逆したわけではない。高等小学校を出てからは一家七人を養った父なので、反発しても空しかったはず。きっかけは不明ながら、高校一年から大学一年まで自家の誰ともいっさい口を利かずに通し、父を怒らせ母を悲しませた。思春期の三年間以上、この姿勢を貫いた意志の強固さはその後を決定付けているようでもある。大学の二年目からはバイトを始めて自活を志し、現実的な「家出」を試みたのだが、それより先に家族との「和解」が訪れてしまった。後年、何もわかっちゃおるまいとタカをくくっていた母から「お前はサラリーマンにはなれないから」と言い当てられて驚いたことがあったが、黙秘を貫いた息子に呆れた体験に基づいた判断だったのだろう。
この母は女学校を出ながらも高等小学校卒の父と結婚したわけで、なにやら微笑ましいロマンスがあったことは叔父から聞いたことがある。慈愛に満ちた女性だったが、頑固で我がまま放題だった頃の息子としては、厳しくたしなめられて目が覚めた経験も忘れられない。民族や職業などで周囲から差別を受けている人がいたのは子供心にも分かっていたが、両親とも差別意識とは無縁で広く迎え入れているのは感じていた。父が自家でよく祖父と同じく「オイ、上がれ!」と発していたが、それは知り合なら誰でもお茶に誘う言葉だった。
父は通いの職人さんに靴を造らせて自分では造ら(れ)なかったが、靴ブームの機会を捉えてその材料屋に転じて当たり、引っ越したお蔭か中学校が名うてのワルの集まる所に行くハメになってしまった。靴材料の店を出してから、母は炊事洗濯が終ると店に行き父を支えていたが、著名な「上州のカカア天下」を地で行くこととなった。関谷商店の手拭いには常にヒョウタンの絵柄が描かれていたが、「お父ちゃんがブラブラしているからだヨ」と説明されて子供心にも納得するところがあった。店に遊びに行くと、パチンコ屋に行ったまま帰ってこない父を、「お客さんが待ってるヨ」と迎えに行かされたことが何度もあった。
イチローのふてぶてしい渋とさは誰の血に由来するのか不明だが、祖父の戒名には「関山道徹居士」とあるから或いは父系のDNAなのかもしれない。「道徹」には。《自ら反(かえり)みて縮(なお)ければ、千万人と雖も吾往(ゆ)かん》(「孟子」、出典は宇大卒・八木澤薫の教示による)というイチローの好きな言葉に通じるものを感じる(もう一つの好きな言葉は「史記」の《士は己を知る者の為に死す》)。父母の戒名は「義導」と「慈照」で田舎の住職にしては言い当てている感じだが、イチローは父母から右手に「義」、左手に「慈」を(真ん中には別の「じ(痔)」を)受け継いで生きたと言えるかもしれない。「かもしれない」「気がする」の繰り返しでしかないように、言葉遊びとナマダラが過ぎたようなので本題に戻りたい。(続く)